がくと‐しゅつじん〔‐シユツヂン〕【学徒出陣】
学徒出陣
学徒出陣
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入学した12月に太平洋戦争が始まったが、この時点で上原は周囲の学友たちと一緒に、ラジオ臨時ニュースの真珠湾攻撃での日本軍の大戦果に大歓声を挙げ、宣戦の詔勅の奉読を脱帽して聞き、東條英機首相の演説を聞いて胸を熱くするなど、一般の学生たちと同じような開戦への感想を日記に記している。その後、大学生の徴兵猶予停止によって学徒出陣となって、大学を繰り上げ卒業し、明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会に参加している。 1943年12月1日に陸軍入営。歩兵第50連隊に配属となり、第2期特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校入校、館林教育隊にて操縦訓練を開始した。軍に入隊前は、一般の学生と同じように日本の勝利を喜んでいた上原であったが、今までの学生生活とは全く異なる厳密な上下位階制且つ命令絶対の世界を体験し、また理不尽な暴力や叱責、無内容な精神訓話や無意味な訓練を強要されるうちに、学生時代に培った「自由主義思想」が強化されていった。上原は上官などに臆することなく、軍内で「自由主義思想」に基づく自分の考えを主張した。熊谷陸軍飛行学校では、訓練の感想などを記入して上官に提出する「修養反省録」というノートがあったが、上原はその「修養反省録」に「教育隊ニ人格者少ナキを遺憾トスル」などと堂々と上官を批判するような記述を行い、上官からは「貴様ハ上官ヲ批判スル気カ」「学生根性ヲ去レ!」などと朱書きで叱責の返事がなされている。しかし、上原はその叱責に全く臆することなく「人間味豊カナ、自由ニ溢レ、其処ニ何等不安モナク、各人ハ其ノ生活ニ満足シ、欲望ハアレドモ強クナク、喜ビニ満チ、幸福ナル真ニ自由ト云フ人間性ニ満チ溢レテ、コノ世ヲ送ラントスル時代が近ヅキツツアル。ソレハ自由主義ノ勝利ニ依ッテノミ得ラレル。クローチェハ云ヘリ。今国家ニ特殊ナル使命ハアリ得ズ。」などとクローチェや自分が標榜する「自由主義」が勝利すると明記し、さらに上官を激怒させている。 1944年に熊谷陸軍飛行学校を卒業、この頃から上原は自分の考えを「戦陣手帳」と名付けた小さな手帳に記すようになるが、その中には「自由ハ人間性ナルガ故ニ、自由主義国家群ノ勝利ハ明白デアル。日本ハ思想的ニ既ニ敗レテ居ルノダ。何デ勝ツヲ得ンヤ」「日本ノ自由ノタメニ、独立ノタメニ死ヲ捧ゲルノダ」と、すでにファシズムのイタリアや、ナチズムのナチスドイツが敗れようとしているように、同じ枢軸国で国家主義の大日本帝国が、個人主義、自由主義のアメリカや大英帝国に戦争に負けると確信していたが、同時に日本のために飽くまでも命を捧げて戦い抜く決意もしていた。 1944年8月から鹿児島県知覧の第40教育飛行隊に配属となり連日激しい訓練を繰り返した。この知覧での訓練はかなり過酷であった模様で、11月までの4ヶ月間は筆まめな上原が家族や知人に一切手紙すら出せないような状況であった。一転して、12月に着任した佐賀県目達原第11練成飛行隊においては、訓練日程も比較的余裕があり、女学校を卒業したばかりの女性事務員たちと交流を持ち、テニスラケットやボールを貸してもらって、慶應義塾大学日吉キャンパスのテニスコートを懐かしみながら友人とテニスを楽しんだりしていた。目達原基地では1945年3月6日に特攻の志願が募られたときに、上原は一緒に訓練していた80名の搭乗員と特攻に志願した。 特攻を志願した上原は故郷への帰郷を許されて、4月6日に最後の帰郷をした。上原は家族や親戚や幼なじみと会ったが、誰にもこれが最後とは告げなかった。しかし幼なじみで親友の犬飼五郎には、「死地に赴くのに喜んで志願する者は一人だっていない。上官が手をあげざるをえないような状況をつくっているのだ。仕方ない と心で泣き泣き手をあげているのが本当の気持ちさ」と語り、家族と一夜を過ごしたときには、酒を飲みながら「日本は敗れる。俺が戦争で死ぬのは、愛する人たちのため。戦死しても天国にいくから靖国神社にはいないよ」と語っている。軍に入隊当初上原は「修養反省録」に「靖国ノ神トナル日ハ近ヅク」などと書いており、考えが大きく変化したことがうかがえる。 上原は、4月15日に調布飛行場にて、常陸教導飛行師団で陸軍航空士官学校第57期池田元威少尉を隊長として編成された陸軍特別攻撃隊第56振武隊に配属となった。第56振武隊は隊長の池田以外の隊員は、上原と同期の第2期特別操縦見習士官で編成された全員将校の部隊であった。上原らは調布飛行場で乗機となる三式戦闘機「飛燕」を受領し、機体の整備と訓練を行った。ここでは、気の置けない同期生たちとざっくばらんな会話をしていたようで、面会に来た妹の清子が、上原と同期生たちが「俺と上原と一組か。大物をやれよ。小破なんか承知せんぞ」 「当然だ。空母なんか俺一人で沢山だ」「これがニューヨーク爆撃なんていうなら喜んで行くんだがな。死んでも本望だ」「心残りはアメリカを一遍も見ずに死ぬことさ。いっそ沖縄なんか行かず、東の方に飛んで行くかな」「アメリカに行かぬままお陀仏さ」「向こうの奴らは何と思うかな」「ほら、今日も馬鹿共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」などと語り合っているのを聞いている。 5月3日に上原ら第56振武隊は陸軍の特攻基地である知覧基地に到着した。知覧町には、上原ら陸軍特別攻撃隊員たちが食事をした「富屋食堂」があったが、上原はそこの女将鳥濱トメに「小母さん、日本は負けるよ」と来店するたびに呟いていたという。鳥濱は上原の呟きを聞くと「そんなことはいってはいけない。ここには憲兵もいるんだから、気をつけなさいよ」と優しく諫めていた。
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学徒出陣
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満19歳となった1942年(昭和17年)の4月、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)に入学。この年の11月に姉・瑠璃子は細川宗平と結婚した。 満20歳となった1943年(昭和18年)10月の学徒出陣により、12月から海軍二等水兵として武山海兵団に入団。翌年1944年(昭和19年)2月に、海軍兵科第四期予備学生となり、7月に予備学生隊として海軍電測学校に入校。同月に帝大法学部を卒業した。この同月には、義兄・細川宗平が中国にて戦病死となった。 同年の1944年(昭和19年)12月、海軍電測学校を卒業した吉田は少尉(予備少尉)に任官され、戦艦大和に副電測士として乗艦を命ぜられ電探室勤務となった。 満22歳となった翌年1945年(昭和20年)の4月3日、戦艦大和に沖縄への出動命令が下り、吉田も天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加した。連合艦隊はほとんど壊滅し、護衛の飛行機も一機もない中、米艦船に埋め尽くされていた沖縄の海に向け出発した戦艦大和は7日、徳之島西北の沖にいた。 その運命の日、吉田は哨戒直士官を命ぜられ、艦橋にいた。8回にわたる米軍機約1000機の猛攻撃を受けて、戦艦大和はあえなく沈没した。吉田は頭部に裂傷を負ったものの、辛うじて死を免れた。しかしながら、多くの同胞の死を目の当たりにしたそれらの壮絶な体験は生涯消えることのない記憶となった。 絶え間ない炸裂、衝撃、叫喚の中で私の肉体はほしいままに翻弄された。躍り.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}匍(は)い走りすくんだ。こころは今や完全に機能を失い、感覚だけが目ざましい反応をつづけた。筋肉が神経が痙攣して、ただそれに追われるばかりであった。死が、血しぶきとなり肉片となって私の顔にまといついた。或る者は、まなじりを決したまま、一瞬飛び散って一滴の血痕ものこさなかった。他の者は、屍臭にまかれ恐怖に叩きのめされて失神し、身動きも出来ぬままなお生を保っていた。およそ人の訴えを無視し、ときとところを選ばぬ死神の跳梁、生の頂点をのぼりつめて、死の勾配を逆落ちながら、あばかれる赤裸々なその人間。蒼ざめたまま口を歪めてこときれる者。女神のような微笑みをたたえ、ふと唇をとじる者。人生のような、芝居のような、戦闘の一局面。そこでは、一切に対する、想像も批判も連想も通用しない。 — 吉田満「死・愛・信仰」 その後、吉田はまだ傷が完治していないまま入院していた病院を希望退院して特攻に志願。同年7月に高知県高岡郡須崎の回天基地(人間魚雷基地)に赴任した。しかし、命ぜられた任務は特攻ではなく、基地の対艦船用電探設営隊長であった。米軍の上陸を迎え撃つため、吉田は須崎湾の突端の久通村という部落で陣地の構築を行なった。
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学徒出陣
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1943年(昭和18年)10月21日に開催された神宮外苑での学徒出陣壮行会では、答辞を読んだ。 以下全文。 明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競い、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。本日、この思い出多き地に於て、近く入隊の栄を担い、戦線に赴くべき生等(せいら。自分達。以下同じ)の為、斯くも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示を忝くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能わざるところなり。惟(おも)うに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃攘払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確乎として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は、日を追って熾烈の度を加え、事態益々重大なるものあり。時なる哉、学徒出陣の勅令公布せらる。予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ迸しめ得たりし生等は、是に優渥なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。豈に感奮興起せざらんや。生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟(かみしんきん)を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。斯くの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を磨礪し、強靭なる体躯を堅持して、決戦場裡に挺身し、誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。昭和十八年十月二十一日。 「生等、もとより生還を期せず」は有名な言葉である。答辞は教授の添削を受けたが、「生還を期せず」は自ら考えたものだった。出陣後、航空整備兵として内地で陸軍(大日本帝国陸軍)に所属する。 「答辞」の体験については、その後あまり語りたがらなかった。67年後に朝日新聞の大久保真紀編集委員のインタビューに答えて、「答辞は我が身にとっては名誉なこと。だが、戦没者のことを思えば何も言えない」と、戦後ずっと黙していた心の内を語った。壮行会から満70年となる2013年には毎日新聞において、「僕だって生き残ろうとしたわけじゃない。でも『生還を期せず』なんて言いながら死ななかった人間は、黙り込む以外、ないじゃないか」と述べ、戦後に事実と異なる噂やデマによる中傷にも反論しなかったことを明かしている。同じ記事では「自分が話すことが、何も言えずに亡くなった人の供養になる。最近そう思っている」と記されている。
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