拉孟・騰越の戦いとは? わかりやすく解説

拉孟・騰越の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/24 10:05 UTC 版)

拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国雲南省ビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で行われた、日本軍中国軍アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。すでに南部を占領していた日本の部隊は援蔣ルートの遮断のために派遣された小規模なもので、進出した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていたが、援蔣ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続されたため、連合軍の指導によって近代的な装備を身につけた中国軍が1944年より反撃に転じ、日本軍は補給路を断たれ孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に玉砕した。硫黄島などの孤島において玉砕したケースは多いが、この戦いは大陸において玉砕した珍しい戦闘として知られる。しかし、中国軍も陣地に立てこもる日本軍の防御戦闘により日本軍の数倍の死傷者を出した。






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拉孟・騰越の戦い

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ビルマの戦い」の記事における「拉孟・騰越の戦い」の解説

詳細は「怒江戦い中国語版)」を参照 拉孟は、ビルマルートが怒江を横切る「恵通」の近く陣地である。陣地標高2,000メートル山上位置し深さ1,000メートル怒江峡谷隔てて中国軍向かい合う最前線だった。日本軍歩兵第113連隊守備隊とし陣地設備強化していた。6月2日中国軍が拉孟を包囲したとき、連隊長松井秀治大佐出撃中だった。金光恵次郎少佐以下1,270名の守備隊は、41,000名の中国軍攻撃をたびたび撃退した。だが9月7日木下正巳中尉と兵2名を報告のため脱出させた後、拉孟守備隊玉砕した騰越は、連隊長重康美大佐の指揮する歩兵148連隊守備していた。騰越中世式の城郭都市であり、周囲高地囲まれ近代戦戦場として守備難し地勢だった。騰越周辺での戦闘6月27日開始された。守備兵力は2,025名、攻囲する中国軍49,600名だった。重は8月13日戦死し大田正人大尉が代わって指揮取った8月下旬以降城壁破壊され市街戦展開された。守備隊9月13日玉砕した

※この「拉孟・騰越の戦い」の解説は、「ビルマの戦い」の解説の一部です。
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