軍の攻勢作戦中止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 04:35 UTC 版)
以上のように、第33軍の攻勢は、第56師団方面ではおおむね予期したとおり進捗したが、第2師団方面では戦況の進展は望めなくなっていた。この攻勢の間、敵遠征軍主力に与えた損害は膨大なものと推定されたが、彼我兵力の隔差は大きく、引き続き攻勢を続行すれば、軍の戦力を消耗し尽くし、長期にわたる印支地上連絡路の遮断任務も遂行不可能に陥るおそれがあった。また、この作戦は拉孟・騰越守備隊の救出を目的としていたが、拉孟は9月7日、騰越は9月14日に、遂に壮烈な玉砕を遂げた(拉孟・騰越の戦い)。このため本多軍司令官は、騰越玉砕をもって作戦の転機と判断し、涙を呑んで断第一期作戦(龍陵会戦終結まで)の中止を決意した。軍は9月14日夕刻、各部隊に作戦中止を速報するとともに、当時なお敵の重囲下に苦戦を続けている平戞守備隊の救出に全力を挙げることとした。 その後、戦線の後退は順調に進み、第56師団はその主力を芒市付近に集結させた。また、軍は第2師団に対し、おおむね龍陵南方高地線での持久を命じたが、岡崎師団長は敵に龍陵を力攻させることによって持久の日数を稼ぐことを決意し、龍陵を核心として各連隊を布陣させた。龍陵守備隊は、第56師団主力の後退により混乱を生じつつも、その後も頑強に抵抗を続け、11月3日に軍から撤退を命ぜられるまで、僅かな兵力で遂に龍陵を守り抜くことに成功した。
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