兵要地誌及び両軍の配備兵力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 17:28 UTC 版)
「拉孟・騰越の戦い」の記事における「兵要地誌及び両軍の配備兵力」の解説
拉孟は中国名を「松山」といって無名の廃村である。拉孟は怒江の西岸にあり、恵通橋を眼下に見下ろす海抜2000メートルの山上にある。東は怒江の大峡谷を挟んで対岸の鉢巻山と相対し、北方および南方は怒江の二つの支流の深い渓谷に挟まれている。西方のみがビルマ行路に沿って龍陵に通じていた。気候は内地に似て四季の変化に富んでおり、とくに秋は美しかった。 1942年5月に同地を占領した第56師団は、その隷下の歩兵第113連隊(連隊長:松井秀治大佐)の指揮のもと、歩兵1個大隊・砲兵1個大隊の兵力で陣地構築にとりかかり、堅固な防衛陣地を築き上げた。1943年中期以降、雲南遠征軍の反攻準備が進展すると、空陸から拉孟陣地を攻撃するようになり、守備隊はそれに反撃しつつ約100日分の武器弾薬食料の集積に努めた。また軍属によって酒などの嗜好品を売る店舗が開設された。 1944年3月に雲南遠征軍の一部が拉孟北方の大廉子で怒江を渡河し、反攻してきた。松井大佐は2個大隊に砲工兵の一部を率いて紅木樹方面(拉孟北方)に出撃し、怒江の水際でこれを破った。また歩兵第2大隊長は部隊を率いて平戛(へいかつ、拉孟より40キロ南)へ出撃した。その後もミイトキーナ南方に降下した英軍空挺部隊の掃滅など各地を転戦し、6月5日、騰越に全部隊が集結した。松井大佐は結局、拉孟に復帰することはなかった。それより3日前にジョセフ・スティルウェル米陸軍大将が再建した20万の中国軍(雲南遠征軍・指揮衛立煌将軍)の一部4万8千名が拉孟を包囲した。残りは騰越、龍陵、平戛に向かった。対する拉孟守備隊の兵力はわずか1280名であった。拉孟守備隊は野砲兵第56連隊第3大隊長金光恵次郎少佐が指揮した。
※この「兵要地誌及び両軍の配備兵力」の解説は、「拉孟・騰越の戦い」の解説の一部です。
「兵要地誌及び両軍の配備兵力」を含む「拉孟・騰越の戦い」の記事については、「拉孟・騰越の戦い」の概要を参照ください。
- 兵要地誌及び両軍の配備兵力のページへのリンク