雲南遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 10:02 UTC 版)
1251年、モンケが第4代モンゴル皇帝に即位すると、南宋遠征の一環として雲南・大理遠征が議決された。南宋遠征軍の右翼軍の大将としてクビライが任じられると、ウリヤンカダイはこの宿将に任じられた。翌1252年に息子のアジュ(阿朮)をともなって四川方面に南下して金沙江を渡り大理国に迫った。クビライの右翼軍は大理を包囲して降伏させ、大理国王段興智を捕虜とした(段興智は旧領を安堵されて、管領として摩訶羅嵯に封じられた)。雲南に都元帥が置かれ、この功績によりウリヤンカダイは大元帥となった。 この時、クビライは兄である皇帝モンケと戦線の方針を巡って対立があったようで、クビライは南宋遠征軍の司令官から更迭させられ、本拠地の上都金蓮川へ北還したが、ウリヤンカダイは右翼軍の指揮権を委譲されて、後にチャガタイ王家の第6代当主となるアビシュカ、カチウン家のチャクラ、エジルなどの王族たちとともにそのまま雲南の遠征軍のうちに留め置かれた。ウリヤンカダイの右翼軍はそのまま南征したのち北に取って返し、東方三王家の首班テムゲ・オッチギン家の当主タガチャルの指揮する左翼軍が襄陽を陥落させ、鄂州で合流する計画であったという。
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