第33軍の断作戦計画
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上述の雲南遠征軍に対する反撃作戦は、ほとんど第56師団独自の判断で実行された。当時、同師団の上級司令部である第33軍司令部は編成直後(昭和19年4月29日編成完結)であり、かつフーコン方面の戦況が緊迫していたため、第33軍司令官の本多政材中将は、雲南方面の反撃作戦を第56師団に一任していた。しかし昭和19年6月末になり、龍陵地区における第56師団の攻勢も限界に達し、拉孟守備隊救出の見込みも立たなかったため、本多軍司令官は第56師団主力を龍陵南西の芒市付近に後退させた。この間、拉孟・騰越・平戞の各守備隊は優勢な遠征軍の重囲下で孤軍勇戦を続けており、また第56師団主力の後退により、龍陵も再び敵の包囲するところとなった。 この当時、インパール作戦失敗後のビルマ方面軍の作戦指導は、雲南の怒西地区において連合軍のインド・中国連絡ルート(レド公路)を遮断することに重点を置いていた。このため、ガダルカナル島の戦いから撤退した後、ビルマ南西沿岸の防備に当たっていた第2師団と、新たにビルマに増加された第49師団の一部を第33軍に増強することとした。また、7月3日、大本営の作戦班長や支那派遣軍の課長参謀を歴任した辻政信大佐が第33軍作戦参謀に転補した。辻大佐は高級参謀の白崎嘉明大佐の下で、以下の作戦計画を立案した。 軍は主力を芒市周辺に集結し、雲南遠征軍主力を龍陵方面に撃滅して怒江の線に進出し、拉孟・騰越守備隊を救援するとともに、印支連絡路を遮断する。 龍陵周辺への攻撃は第56師団及び第2師団の攻勢準備完了とともに速やかに開始する。 龍陵周辺において敵主力を撃破した後は、一挙に拉孟付近に急進して拉孟守備隊を解囲救出し、次いで騰越方面に攻勢を執り騰越守備隊を解囲救出する。 平戞守備隊の救出は第2師団又は第56師団の一部をもって行い、騰越守備隊救出と同時又はその後に行う。 第18師団はインドウ付近に後退後、ナンカン方面に転進し、以後ミイトキーナ方面の敵に対して印支連絡路を遮断する。 バーモ付近は第2師団の一部をもって確保しつつ第18師団の転進を掩護し、ミイトキーナ方面の敵の前進を遅延させる。 ミイトキーナは努めて長く確保し、スチルウェル中将の米支軍と雲南遠征軍との連携を遮断する。 雲南遠征軍主力を撃破して第一期の作戦目的を達成した後は、第2師団及び第18師団主力をもって米支軍方面に攻勢を執り、ミイトキーナ及びバーモ守備隊を救出し、第56師団とともに印支連絡路の遮断を強化する。 鉄道線を補修・確保して補給に遺憾なからしめるとともに、ワンチン・ナンカン周辺に陣地を構築し、軍の以後の作戦を準備する。 以上の作戦は、印支ルート遮断の「断」をとって、「断作戦」と呼称することとなった。
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