雲南派から国民軍へとは? わかりやすく解説

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雲南派から国民軍へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 03:21 UTC 版)

楊杰」の記事における「雲南派から国民軍へ」の解説

1900年光緒26年)、大理文書院に入学し5年後卒業したその後雲南陸軍講武堂入学し、さらに保定北洋軍官学堂転入軍事学んでいる。1911年宣統3年)春、日本留学し陸軍士官学校第10期砲兵科学んだ。このときに中国同盟会加入している。同年武昌起義辛亥革命勃発受けていったん帰国し武昌革命派北伐聯軍総務部次長務めた。まもなく日本戻って復学し1913年卒業した帰国後の楊杰は、貴州都督務めていた雲南派指導者唐継尭属し貴州武威歩兵10団団長に任ぜられる。以後貴州騎兵第1団団長、滇軍第9旅旅長、重慶衛戍司令官四川省政務庁庁長などを歴任した1915年民国4年12月護国戦争勃発すると、唐率い護国第3軍第2梯団第5混成支隊長に任ぜられ、後に第4軍参謀長兼第1縦隊司令として四川省東部出撃している。護国戦争終結後陸軍中将位を授与された。 1917年民国6年)、楊杰一度北京政府で職に就いたが、まもなく昆明戻って唐敬尭に再び属する。靖国聯軍第4軍参謀長靖国軍中央軍総指揮瀘州衛戍司令靖国聯軍高級顧問雲南陸軍講武学校講武堂の後身教官歴任した1920年、再び日本留学して陸軍大学校学び1923年卒業した翌年帰国すると、奉天派指導者張作霖の下に向かい上校参謀に任ぜられる。同年冬に馮玉祥国民軍結成すると、楊はその下に転じて孫岳率い国民軍第3軍参謀長に任ぜられた。1925年民国14年9月国民軍前敵指揮官河南軍官教育団教育長となっている。

※この「雲南派から国民軍へ」の解説は、「楊杰」の解説の一部です。
「雲南派から国民軍へ」を含む「楊杰」の記事については、「楊杰」の概要を参照ください。

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