雲南派からの離脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 04:35 UTC 版)
1927年(民国16年)2月、唐継尭は国民政府を支持する配下の竜雲ら4鎮守使の兵変で失脚し、翌年1月に竜を主席とする雲南省政府が成立する。張維翰はそのまま竜に継続して起用され、省政府委員兼国民政府外交部特派駐雲南交渉員に任ぜられる。同年末に南京で開かれたベトナムをめぐる中仏条約改訂会議に参加した。1929年(民国18年)12月、張は省政府民政庁庁長に起用された。しかし旧政権(唐継尭)の幹部でありながら竜に重用された張は、盧漢ら雲南軍の軍人から嫌悪されている。 翌1930年(民国19年)3月に盧漢ら雲南軍4師長が竜雲に対して兵変を起こした際には、孫渡(当時、参謀長)とあわせて張維翰が、真っ先に「君側の奸」として盧らの粛清の標的として掲げられる。まもなく兵変が失敗に終わったため、張は民政庁長の地位を保った。しかし、張はこの事件を境に政務に精彩を欠くようになり、結局、1931年(民国21年)8月に民政庁長を辞任した。これにより張は、雲南派から事実上離脱し、国民政府中央に転じることになる。
※この「雲南派からの離脱」の解説は、「張維翰」の解説の一部です。
「雲南派からの離脱」を含む「張維翰」の記事については、「張維翰」の概要を参照ください。
- 雲南派からの離脱のページへのリンク