ほく‐ばつ【北伐】
北伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 06:23 UTC 版)
北伐(ほくばつ)は、中国では、一般的に、南方から軍隊を動かし北方勢力と戦うことを言う[1][2]。普通は、1920年代の中国国民党による「北伐」、とりわけ蔣介石が指導した「北伐」を指すことが多い[1][2]。
歴史上の北伐
秦・漢
- 蒙恬の北伐(前214年)、秦の蒙恬による匈奴に対する軍事行動。
- 項梁の北伐(前208年)、楚の項梁による秦に対する軍事行動。項梁は、秦の章邯に敗北し斬首された。「定陶の戦い」を参照
- 項羽の北伐(前207年)、楚の項羽(項梁の甥)による秦に対する軍事行動。秦の章邯は鉅鹿で大敗を喫し投降した。「鉅鹿の戦い」を参照
- 漢の武帝の北伐(前133年~前119年)、漢の武帝による匈奴に対する軍事行動。「漢の対匈奴戦争」を参照
- 漢の宣帝の北伐(前103年~前71年)、漢の宣帝による匈奴に対する軍事行動。漢は烏孫や烏桓の協力の下、匈奴を撃破した。
三国
- 曹魏
- 曹操の烏桓に対する北伐(206年~207年)、曹操による袁尚・袁煕と烏桓に対する軍事行動。「白狼山の戦い」を参照
- 曹操の烏桓に対する北伐(206年~207年)、曹操による袁尚・袁煕と烏桓に対する軍事行動。
- 孫呉
- 蜀漢
東晋・南北朝
- 祖逖の北伐(320年)、東晋の祖逖による西晋の失地回復のための軍事行動。「北伐 (東晋)」を参照
- 褚裒の北伐(349年)、東晋の褚裒による失地回復のための軍事行動。「北伐 (東晋)」を参照
- 殷浩の北伐(353年)、東晋の殷浩による失地回復のための軍事行動。「北伐 (東晋)」を参照
- 桓温の北伐(354年、356年、369年)、東晋の桓温による前秦などに対する軍事行動。「北伐 (東晋)」を参照
- 謝玄の北伐(378年)、謝玄による東晋の失地回復のための軍事行動。
- 劉裕の北伐(409年~410年、416年~417年)、東晋による失地回復のための軍事行動。南燕が滅亡した。「北伐 (東晋)」を参照
- また、後秦を滅亡させた軍事行動を「西征」と呼ぶ。
- 北魏の太武帝の北伐(429年~449年)、北魏の太武帝による北方遊牧民に対する反撃、柔然に対する七次にわたる軍事行動。
- 元嘉年間の北伐(430年、450年、452年)、元嘉年間に南朝宋の文帝により実施された河南回復ための北魏に対する軍事行動。
- 梁の武帝の北伐(505年)、梁の武帝による北魏に対する軍事行動。
- 陳慶之の北伐(528年~529年)、梁の武帝が北魏での六鎮の乱勃発に乗じて陳慶之に命じた北魏に対する軍事行動。
- 陳の宣帝の北伐(573年)、陳の宣帝による淮南回復のための北斉に対する軍事行動。
隋・唐
五代
北宋
- 雍熙年間の北伐(986年)、雍熙年間に北宋の太宗による燕雲十六州奪還のための、遼(契丹)に対する軍事行動。
- 宋の真宗の北伐(1004年)、北宋の真宗が寇準の建議に応じて親征した、遼(契丹)に対する軍事行動。「澶淵の盟」を参照
- 宣和年間の北伐(1122年~1123年)、宣和年間に北宋の徽宗により実施された遼(契丹)に対する軍事行動。
南宋
- 岳飛の北伐(1134年~1140年)、岳飛による北宋の失地回復のための、金に対する軍事行動。
- 張浚の第一次北伐(1136年)、張浚による北宋の失地回復のための、金に対する軍事行動。
- 張浚の第二次北伐(1163年)、隆興年間、完顔亮殺害に乗じ、失地回復のために張浚により実施された、金に対する軍事行動。
- 開禧年間の北伐(1206年)、開禧年間に韓侂冑が主導した領土回復を目的とした、金に対する軍事行動。
- 端平入洛(1234年)、南宋とモンゴル帝国の攻撃で金を滅し、南宋が西京河南府を回復した軍事行動。
元
明
- 徐達の北伐(1367年~1369年)、徐達と常遇春の指導する明の軍隊による元に対する軍事行動。この間、トゴン・テムルはモンゴル高原に撤退し、以降、歴史上、北元と称される。
- 朱元璋の北伐、明の朱元璋による北元に対する八次にわたる軍事行動(1370年、1372年、1380年、1381年、1387年、1387年~1388年、1390年、1396年)。
- 永楽帝の北伐、明の永楽帝による北元の残余勢力たるタタール・オイラト・ウリャンハイに対する軍事行動。1409年、1414年、1422年、1423年、1424年の五次にわたり親征が実施された。
- 英宗の北伐(1449年)、明の英宗によるオイラトに対する軍事行動。英宗は土木堡で俘虜となった。「土木の変」を参照
南明
清
民国
- 中国国民党の北伐、中国国民党による全国の統一を目指した戦争。孫文による第一次北伐または第一回北伐(1922年2月~6月)および第二次北伐または第二回北伐(1924年9月~11月)と蔣介石による第三次北伐(1926年7月~1928年12月)がある。
朝鮮
出典
北伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 02:24 UTC 版)
太祖は元に内紛を生じたのを好機と捉え、20万を越える大軍を竹馬の友である徐達に授け、ただちに北伐を行わせた。当時元軍の主力であるココ・テムルの軍は陝西で李思斉の軍と交戦中であり、中原の防備は手薄であった。北伐軍は快調に進撃し、山東、河南を次々に平定した。元の順帝は抵抗を諦め首都大都を放棄して北方へ逃走したため、明軍は抵抗を受けることもなく洪武元年(1368年)の8月に大都を占領し、北平府と改称した。元は漠北へ撤退し北元となった。洪武4年(1371年)に紅巾の残党である四川の大夏国を滅ぼし、洪武14年(1381年)には段氏の雲南を平定し中国を統一した。また北元を討つためモンゴルへ繰り返し出兵し、元の残党の多くを降らせることに成功した。洪武20年(1387年)の遠征で北元最後の主力であったマンジュリア軍団を討ち、北元をほぼ壊滅させた。
※この「北伐」の解説は、「朱元璋」の解説の一部です。
「北伐」を含む「朱元璋」の記事については、「朱元璋」の概要を参照ください。
「北伐」の例文・使い方・用例・文例
北伐と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- >> 「北伐」を含む用語の索引
- 北伐のページへのリンク