蔣琬とは? わかりやすく解説

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蔣琬Jiang Wan

ショウエン
シヤウヱン

(?~246
大司馬録尚書事益州刺史安陽亭恭侯

字は公琰零陵郡湘郷県の人。

二十歳のとき外弟劉敏とともに有名になった。荊州の書佐となり、劉備益州攻略従軍して広都県長任命される。たまたま劉備遊覧ついでに広都県に立ち寄ったとき、蔣琬が仕事放置したまま泥酔していたので、劉備大い立腹して処罰しようとした諸葛亮が「蔣琬は国家を担うべき人物ですが、百里四方治めるような人物ではありません。彼は住民安心させることを基本としていて、見栄え気にしないのです」と彼を庇ったので、罷免されただけで済んだその日の夜、牛の頭が一つ門前転がっていて血を流している夢を見た夢占い趙直呼んで尋ねると「血は政治能力があることを意味し牛の角と鼻を合わせると『公』という字になりますあなたは公卿になるでしょうとのことであった

ほどなく什邡県令に復帰し劉備漢中王になると中央入って尚書郎任じられた。建興元年二二三)、丞相諸葛亮役所を開くと丞相の東曹掾に任命される。また茂才推挙されたが、劉邕陰化・龐延・廖化譲って受け取ろうとしなかった。やがて参軍昇進する。同五年に諸葛亮漢中駐留したとき、長史張裔とともに丞相役所事務取り仕切った。同八年張裔没する長史の官を引き継ぎ、撫軍将軍を加官された。諸葛亮遠征するにあたって兵糧軍兵補充従事し諸葛亮は彼を高く評価して「もし私に不幸があれば蔣琬に後事任せてください」と皇帝劉禅上奏していた。

諸葛亮亡くなると尚書令任命され次いで都護・仮節・益州刺史加えられ、さらに大将軍録尚書事昇進し安陽亭侯に封じられた。人々諸葛亮失ってみな動揺していたが、蔣琬が感情露わにせず普段通り振る舞ったので、次第人々彼に心服していった。延煕元年二三八)に詔勅下って遼東異変起こったのは天の与え好機である。東呉連繋して敵を討て」。蔣琬は開府認可され翌年には大司馬任じられる

東曹掾楊戯は蔣琬と議論するときも返事をしないことがあった。ある人がそれを問題にして楊戯貶めようとしたが、蔣琬は「人の心は顔のようにみな違っているものだ。それに顔を合わせているとき従い、あとで文句を言うのも昔から戒められている。楊戯は私の意見賛成すれば嘘になり、反対すれば私の非を責めることになるから黙っていたのだ」と彼のために弁明した。また督農楊敏が蔣琬を評して右往左往するばかりで仕事前任者及ばないと言った。蔣琬は彼を取り調べようとする係官引き留めて、「彼の言ったことは事実なのだから取り調べの必要はない」と言った。楊敏が別の事件逮捕されたときも、蔣琬は個人的な恨みで彼を重罪に陥れようとはしなかった。

むかし諸葛亮漢中から北進してたびたび失敗したので、蔣琬は漢水を東に沿って進むべきだと考え多く軍船を作らせていた。しかし持病繰り返し発症したので実行には移せないでいた。人々撤退困難さから彼の計画反対したので、皇帝劉禅尚書令費禕・中監軍姜維らに聖旨下して計画中止させた。蔣琬は姜維涼州刺史推薦して北方征伐に当たらせ、自分後方涪城駐屯したいと申し出て認められた。

延煕九年(二四六)、病気重くなって亡くなり、恭侯と諡された。

参照陰化 / 姜維 / 諸葛亮 / 張裔 / 趙直 / 費禕 / 龐延 / 楊戯 / 楊敏 / 劉禅 / 劉備 / 劉敏 / 劉邕 / 廖化 / 安陽亭 / 益州 / 漢水 / 漢中郡 / 荊州 / 呉(東呉) / 広都県 / 什邡県 / 湘郷県 / 涪県 / 涼州 / 遼東郡 / 零陵郡 / 王 / 恭侯 / 県長 / 県令 / 参軍 / 刺史 / 丞相 / 尚書令 / 尚書郎 / 書佐 / 大司馬 / 大将軍 / 中監軍 / 長史 / 亭侯 / 東曹掾 / 督農校尉 / 都護 / 撫軍将軍 / 茂才 / 録尚書事 / 諡 / 仮節 / 行 / 公卿 / 三公(公) / 推挙 / 府(役所開府) / 占夢(夢占い


蔣琬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/13 14:41 UTC 版)

蔣琬
蜀漢
安陽亭侯・大司馬
出生 生年不詳
荊州零陵郡湘郷県
死去 延熙9年(246年
益州梓潼郡涪県
拼音 Jiǎng Wǎn
公琰
諡号 恭侯
主君 劉備劉禅
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蔣 琬(しょう えん、? - 246年)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての政治家公琰。子は蔣斌蔣顕。従弟は劉敏潘濬

荊州零陵郡湘郷県(現在の湖南省婁底市双峰県井字鎮[1])の人。入蜀前の荊州領有時代の劉備に仕官した。劉備亡き後は遺児の劉禅丞相諸葛亮を支え、諸葛亮の死に際して後事を託された。卓越した政治手腕を持ち、諸葛亮に「社稷之器(国家を担う器である)」と才能を認められ、諸葛亮・費禕董允とともに「四相」あるいは「四英」と称された。関羽敗死後に孫権に帰順した潘濬(蔣琬の従弟)に妹が嫁いでおり、潘濬とは義兄弟の関係である。

略歴

20歳にして、従弟の劉敏とともにその名を知られるようになり、荊州領有時の劉備に仕官した。劉備の入蜀に随行し広都県長に任命された。劉備が広都県を訪れた際、仕事を放置して泥酔していたため、激怒した劉備に処罰されそうになったが、諸葛亮の取り成しにより県長を罷免されただけで済んだ。まもなく什邡県令に復帰し、建安24年(219年)、劉備が漢中王に即位すると尚書郎に任じられた。

建興元年(223年)、諸葛亮が丞相府を開府すると茂才に推挙されるが、蔣琬は最初固辞して劉邕廖淳・陰化・龐延らに譲って受けようとせず、諸葛亮に諭された。東曹掾、後に昇進して参軍に任じられた。建興5年(227年)、諸葛亮が北伐を開始した際には、長史の張裔と共に留守として成都に残り、政治・軍事を預かった。諸葛亮は『出師表』において「侍中(郭攸之費禕)・尚書(陳震)・長史(張裔)・参軍(蔣琬)、此れ悉く貞良死節の臣なり」と蔣琬を称えた。建興8年(230年)に張裔に代わって長史となり、また撫軍将軍にも任じられた。諸葛亮は密かに劉禅に対し「私が死ぬことがあれば、後事を蔣琬に託すべきです」と上書していた。

建興12年(234年)、諸葛亮が死去すると尚書令となり、すぐに仮節・行都護・領益州刺史を加えられた。楊儀は中軍師、(丞相)司馬の費禕は後軍師、征西将軍の姜維は右監軍・輔漢将軍、鄧芝は前軍師・兗州刺史、張翼は前領軍、呉懿車騎将軍・督漢中、王平は後典軍・安漢将軍となり、蔣琬はこれらの人々と諸葛亮の死に動揺する北伐の根拠地であった漢中および成都の蜀政権を落ち着かせる役を担った[2]

楊儀の失脚を経て、建興13年(235年)に大将軍録尚書事・中都護・領益州刺史に昇進し、また安陽亭侯に封じられた。延熙元年(238年)、詔により漢中にて大将軍府を開府して屯田を進め、明けて延熙2年(239年)、大司馬・録尚書事・領益州刺史に昇進した。蜀では諸葛亮の死後は丞相の職は置かれなかったが、蔣琬は軍事統帥の最高位である大将軍・大司馬、行政実務の最高位である録尚書事、地方行政の最高位である益州刺史を全て兼務し、丞相の職権をほぼ全て掌握していた[3]。『三国志』費禕伝によると、国の恩賞・刑罰は全て漢中にいる蔣琬に諮問され、その後で実施されたという。

延熙6年(243年)、蔣琬は姜維涼州刺史とした上で北方に当たらせ、費禕に大将軍・録尚書事の職を託し、自身はに駐屯する旨を上疏し認められた。延熙7年(244年)、蔣琬は以前の諸葛亮による北進策の度々の失敗を受け、漢水を利用して東進し魏興上庸を攻撃する計画を立てた。しかし、持病により実行できずにいたことと、撤退の困難さを挙げて計画の反対を唱える人が大勢いたことから、劉禅の指示により、計画は実行されず中止された。延熙9年(246年)に病気が重くなり死去、恭侯とされた。東晋常璩の『華陽国志』によると、蔣琬の墓所は涪にあるとされる。

人物

成都武侯祠の蔣琬塑像
  • 諸葛亮が亡くなった時、人々は不安を抱いたが、後事を託された蔣琬の様子が変わらないのを見て心服したという。
  • 楊戯が蔣琬との議論の途中で返事に詰まってしまう事があった。その時、楊戯を快く思わない者が失脚させようと「楊戯は蔣琬殿と議論をしていると言うのに返事をせぬとは無礼ではありませぬか」と指摘した。すると蔣琬は「人は顔の造りが違うように考え方も人によって違う。彼は自分の考えを曲げてまで私の意見に合わせる事はしないが、かと言って否定すれば公に私を批判する事になってしまうからあえて返事をしなかったのだ。これは彼の長所である」と弁護した(この出来事が『十人十色』の由来とされる)。
  • 蔣琬を「前任者(諸葛亮)に及ばない」と謗った楊敏に対しても、「事実私は諸葛亮殿に及ばない」と言って恨みを持つような事がなかった。後に楊敏は逮捕される事があったが、それでも蔣琬は個人的感情でもって刑に処す事はなかった。このように蔣琬は個人的感情に流されず、冷静で道理に基づいた態度を取った。
  • 東晋の袁宏の「三国名臣序賛」(『文選』所収)においては、蜀の4名臣として諸葛亮・龐統黄権と並んで取り上げられており、諸葛亮の後継者として高く評価されている[4]。また小説『三国志演義』でも、蔣琬は有能な政治家として描かれ、正史同様、高官を歴任し最終的に丞相にまで昇っている。
  • 末・初の思想家・儒学者の王夫之は、著書『読通鑑論』で、蔣琬の魏興や上庸を狙った北伐計画を愚策として批判している。

脚注

  1. ^ 婁底市婁星区人民政府 蔣琬
  2. ^ 華陽国志』七巻
  3. ^ 柿沼陽平「蜀漢的軍事優先型経済体系」(初出:『史学月刊』2012年第9期(中国・河南大学)/改題所収:柿沼「蜀漢の軍事優先型経済体制」『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P203-204.
  4. ^ 蔣琬は「公琰殖根 不忘中正 豈曰模擬 實在雅性 亦既羈勒 負荷時命 推賢恭己 久而可敬」と謳われている

蔣琬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)

三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「蔣琬」の解説

蜀の文官費禕董允と共に蜀の中枢を担う存在として描かれた。孔明からも自分の後丞相継ぐ者として真っ先彼の名をあげられている。

※この「蔣琬」の解説は、「三国志 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
「蔣琬」を含む「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事については、「三国志 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。

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