公孫恭
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公孫 恭(こうそん きょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の人物。父は公孫度。兄は公孫康。甥は公孫晃・公孫淵。家系は公孫氏。
遼東太守であった兄が死去したとき、その子である公孫晃・公孫淵が幼少だったため、兄の後継者として太守の地位を世襲した。魏の曹丕(文帝)からは、車騎将軍・仮節・平郭侯に任命されている[1]。
公孫恭は病に罹り陰萎を病み、228年、成人した甥の公孫淵に脅迫され太守の座を譲ることを余儀なくされた[2]。公孫恭が兄の公孫晃を可愛がり公孫淵を遠ざけようとしたのが原因と言われている。この際、公孫晃は後々の為にと考え、役職を拝命した上で都(許昌、後に洛陽)に赴き、弟の討滅を何度も上表したが却下され[3]、公孫淵の敗亡後に連座で処刑された[4]。正史と、『晋書』宣帝本紀によれば公孫淵が討たれた際には城内に幽閉されていたため、これを知った司馬懿に「公孫恭が太守であった時代は公孫氏が魏に忠実であった」として釈放されている[5]。
小説『三国志演義』においては、袁尚らが亡命してきた際の対応を兄と相談する場面がある[6]。
関連項目
脚注
- ^ 三國志 魏書·二公孫陶四張傳 (中国語), 三國志/卷08#公孫度, ウィキソースより閲覧。 - 康死,子晃、淵等皆小,眾立恭為遼東太守。文帝踐阼,遣使即拜恭為車騎將軍、假節,封平郭侯;追贈康大司馬。
- ^ 三國志 魏書·二公孫陶四張傳 (中国語), 三國志/卷08#公孫淵, ウィキソースより閲覧。 - 初,恭病陰消為閹人,劣弱不能治國。太和二年,淵脅奪恭位。
- ^ 三國志 魏書·韓崔高孫王傳 (中国語), 三國志/卷24#高柔, ウィキソースより閲覧。
- ^ 魏略輯本卷第七傳 三國 魏郎中京兆魚豢撰 富平張鵬一輯 (中国語), 魏略輯本/卷七#公孫淵傳, ウィキソースより閲覧。 - 始淵兄晃為恭任子,在洛,聞淵劫奪恭位,謂淵終不可保,數自表聞,欲令國家討淵。帝以淵已秉權,故因而撫之。及淵叛,遂以國法繫晃。晃雖有前言,冀不坐,然內以骨肉,知淵破則己從及。淵首到,晃自審必死,與其子相對啼哭。時上亦欲活之,而有司以為不可,遂殺之。
- ^ 晉書 卷一帝紀第一 (中国語), 晉書/卷001#宣帝, ウィキソースより閲覧。 - 初,文懿篡其叔父恭位而囚之。及將反,將軍綸直、賈範等苦諫,文懿皆殺之。帝乃釋恭之囚,封直等之墓,顯其遺嗣。
- ^ 『三國演義』第三十三回 曹丕乘亂納甄氏 郭嘉遺計定遼東 (中国語), 三國演義/第033回, ウィキソースより閲覧。
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