燕王を称す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 01:19 UTC 版)
詳細は「遼隧の戦い」を参照 しかし、こうした公孫淵の二枚舌外交は、魏の強硬政策を招いた。景初元年(237年)、毌丘倹は明帝の名で公孫淵に出頭命令を出した。しかし公孫淵は従わずに迎撃の構えを見せ、毌丘倹と一戦に及びこれを撃退した。この結果、公孫淵はついに自立を宣言し、燕王を称した。賈範・綸直らに諫められたが、聞かずに処刑した。また文武百官を置き、年号を紹漢とした。領土は帯方郡と楽浪郡であった。 翌紹漢2年(238年)、司馬懿自ら指揮を執る魏軍が向かってくると、公孫淵は呉に援軍を求めた。呉は過去の恨みから、嫌味を書いた書簡を送り返したが、それでも魏への牽制には役立つとみて、援軍を差し向けた。また、公孫淵は鮮卑の族長を単于に任じ、味方に取り込もうともした。しかし呉の援軍が間に合わず、止むを得ず単独で戦うも魏軍に大敗、籠城するも遂に降伏した。 この時、公孫淵は降伏ではなく和議の形での終結を図ろうと考え、相国に任じた王建(中国語版)と御史大夫に任じた柳甫を使者に立て、その旨を伝えさせた。しかし、司馬懿は二人をその場で斬ると「お前たちは楚と鄭の故事を知らないのか。私も魏帝から列侯に封ぜられた身、王建ごときに『囲みを解け』、『軍を退け』と指図される筋合いはない。王建は耄碌して主命を伝え損なったのだろう。次は若く頭のよい者を遣すように」と警告した。このため公孫淵は次に衛演を遣わして、人質を送り恭順する旨を伝えさせた。しかし司馬懿は「降伏も出来ぬ者は無様に死ね。人質など無用である」とこれを追い払った。 同年8月23日、公孫淵と子の公孫脩をはじめとする廷臣はみな斬首され、さらに遼東の成年男子7000人も虐殺された。その首は高く積まれ京観(高楼)と呼ばれたという。また公孫淵の首は都の洛陽に送られた。このことで、洛陽に留まっていた兄公孫晃の一族も死を賜ることになり、遼東公孫氏は滅亡することになった。なお、叔父の公孫恭は反乱の際に疑われ城内に幽閉されていたが、司馬懿から忠士であると評価され、反乱鎮圧後に釈放されたという。また賈範・綸直は司馬懿により厚く葬礼され、両名の遺族もまた厚遇されたという。
※この「燕王を称す」の解説は、「公孫淵」の解説の一部です。
「燕王を称す」を含む「公孫淵」の記事については、「公孫淵」の概要を参照ください。
- 燕王を称すのページへのリンク