東晋より受封
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
慕容皝は337年より燕王を称していたものの、未だ東晋朝廷からは承認を得られていなかった。その為、339年10月には長史劉翔と参軍鞠運を建康に派遣し、後趙と戦いの勝利報告と、また仮に王位を名乗ったことの意図の説明をすると共に、さらに時期を定めて大軍を挙げ、共に中原を平定する事を持ち掛けようとした。 劉翔が建康に到達すると、彼は慕容皝を大将軍・仮燕王に認め、王の璽を下賜するよう請うた。だが、朝議での結論は「大将軍が辺境にいた例が無く、漢・魏の時代より異姓の者を王に封じた事が無い。これは認められない」との事だった。だが、劉翔は1年に渡って建康に留まり、幾度も懸命に王位を授ける事による利害を説いたので、成帝も次第に考えを改めて認めてもよいのではないかと考えるようになった。 また340年には東晋政権の中枢を担っていた庾亮が亡くなり、その弟の庾冰・庾翼が宰相の地位を継承していた。慕容皝はこれを受けて予め上表文を作成しており、劉翔らはこれを携えて建康へ赴いていた。その内容は外戚の庾冰・庾翼が権力を専断して乱を招いているので、これを排斥して社稷を安んじるよう申し述べるものであった。また慕容皝は庾冰に対しても書をしたためており、その内容は彼とその兄弟が権力に乗じており、国の恥を注ごうとしていない事を非難するものであった。庾冰はこれらを見て大いに恐れ、慕容皝が遠方の彼方にいることから統制できないと考え、何充らと共に燕王の称号を認める上奏を行った。また、庾翼は慕容皝へ対して返書を送った。 341年2月、東晋朝廷は慕容皝を燕王に封じる事を決め、大鴻臚郭希に節を持たせて劉翔と共に前燕へ派遣した。 7月、郭希・劉翔らは前燕へ至った。慕容皝は使持節・侍中・大都督・河北諸軍事・大将軍・幽州牧・大単于に任じられ、燕王に封じられ、その他の官爵は以前通りとされた。備物や典策はいずれも殊礼に倣うものとした。また、世子の慕容儁は仮節・安北将軍・東夷校尉・左賢王に任じられ、多数の軍資・器械を下賜された。慕容皝は功臣百人余りに爵位を下賜し、劉翔を東夷校尉・領大将軍長史に、唐国郡内史陽裕を左司馬・典書令に、李洪を右司馬・中尉に、鄭林を軍諮祭酒にそれぞれ任じた。 こうして、自称であった燕王の地位を公認された。
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