東晋へ出使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/24 14:18 UTC 版)
慕容廆は東晋朝廷に今回の勝利を報告することにした(慕容部は東晋に従属している)が、その使者として裴嶷を抜擢した。裴嶷はこれに従い、宇文部から奪った玉璽を携えて江東へ向かった。 320年3月、裴嶷は建康に無事到着した。当初、東晋朝廷は慕容廆の勢力が遠方にあり、また彼の事を東夷の末裔に過ぎないと考えていた事から、軽い処遇だけで済ませようと考えていた。だが、裴嶷は慕容廆の威徳を盛んに称え、彼が賢人・俊才を重用していると述べたので、これ以降考えを改めるようになった。 帰還の折、元帝は裴嶷へ建康に留まって東晋に仕えるよう要請したが、裴嶷は辞退して「臣は代々朝廷の恩を蒙っておりますが、遠方におります。今朝廷に参じる機会を得る事が出来ましたが、また詔を賜って京(都である建康の事)に留まるように命ぜられたことは臣個人として大いなる幸福です。皇居が遷ってから(西晋が滅んで東晋に代わった事を指す)後、龍驤将軍(慕容廆)は遠方にありながらも王室に心を捧げ、その義は天地を感動させております。中原の地を平らげて皇輿(皇帝の乗る輿)を迎えんとしており、そのために使臣を遣わして万里の遠方から表を奉じたのです。にもかかわらず今もし臣を留めてしまえば、必ずや国家は遠方を蔑ろにしたのだと周囲に考えさせてしまうことになるでしょう」と述べた。元帝は「卿の言うとおりである」と述べ、裴嶷を帰還させると共に、東晋の使者を裴嶷に随行させ、慕容廆を監平州諸軍事・安北将軍・平州刺史に任じて2千戸を加増させる旨を伝えた。
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