東晋に帰順
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姚襄はその集団を継承すると、父の死を秘匿して喪を発しなかった。6万戸を率いて南へ進むと、陽平・元城・発干を尽く攻め落として3千家余りを殺掠し、碻磝津に駐屯した。この時、王亮を長史に、尹赤を司馬に、伏子成を左部帥に、斂岐を右部帥に、王黒那を前部帥に、強白を後部帥に、薛讃・権翼を参軍に任じた。 同月、姚襄は前秦軍と戦うも敗れ、3万戸余りを失った。その後、南下して滎陽に入ると、父の喪を発してこれに服した。さらに、前秦の将軍高昌・李歴と麻田で交戦となったが、戦乱の最中に流れ矢が乗っていた馬に当たり、死んでしまった。弟の姚萇は馬を下りて姚襄に差し出すと、姚襄は「汝はどうやって免れるのか」と問うたが、姚萇は「ただ兄を救うのみです。それに、豎子(青二才)がどうしてこの萇を害することができましょうか」と答えた。この後、救援が到来したので、共に難を免れることができた。この戦いで尹赤は前秦に降伏した。 4月、姚襄は配下を率いて東晋に帰順し、5人の弟を人質として建康へ送った。詔が下り、姚襄は譙城に駐屯するよう命じられた。その後、姚襄は単騎で淮河を渡って寿春へ赴くと、東晋の安西将軍・豫州刺史謝尚のもとを訪ねた。謝尚は以前より姚襄の名を聞いていたので、武官を引き払わせて平服で出迎えると、まるで旧知の仲のように親しく語らい合った。 6月、謝尚が前秦の征東大将軍張遇の守る許昌を攻めると、姚襄もまたこれに従軍した。前秦君主苻健は丞相苻雄・衛大将軍苻菁に歩騎2万を与えて救援に向かわせた。潁水の誡橋において両軍は激突したが、謝尚軍は大敗を喫し、1万5千の死者を出した。謝尚は淮南へ逃走したが、姚襄は輜重を放棄して芍陂まで謝尚を護衛した。これ以降、謝尚は尽くの事案について、姚襄に付託するようになった。 353年9月、駐屯地を歴陽に移した。前燕・前秦が精強であったことから北伐は時期尚早と判断し、淮河一帯で広く屯田を行い、将士を訓励した。
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東晋に帰順
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 13:36 UTC 版)
317年12月、西晋の愍帝が漢に捕らえられた後に処刑されると、大興元年(318年)、皇族の一人であった司馬睿は江南の地にて皇帝(死後元帝と諡される、以降元帝と呼称)への即位を宣言し、晋の再興を宣言した(東晋の成立)。当時蘇峻の評判は元帝の耳にも届くところであり、そのつてあって蘇峻は東晋より仮の安集将軍に任じられた。 当時東晋・後趙の二国に帰順し、青州全域を実効支配していた青州刺史の曹嶷は、蘇峻を掖県の県令に任じるよう上奏したが、彼は病気を理由に受けなかった。蘇峻を危険視した曹嶷が討伐の兵を興すと、蘇峻は自らの従えていた数百家を伴って海路より南へと渡り、江陵にある東晋の朝廷へと向かった。東晋の朝廷は遠方から到来した蘇峻を歓迎し、鷹揚将軍に任じた。 以降は後趙に寝返った彭城内史周撫の討伐や、明帝の代には王敦による二度目の反乱軍の残党の鎮圧などの功を挙げ、東晋の内部で官位を上げていった。最終的には使持節・冠軍将軍・歴陽内史・散騎常侍にまで昇り詰め、邵陵公に封ぜられ、食邑千八百戸を与えられている。
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