東晋に帰順とは? わかりやすく解説

東晋に帰順

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 06:42 UTC 版)

姚襄」の記事における「東晋に帰順」の解説

姚襄はその集団継承すると、父の死秘匿して喪を発しなかった。6万戸率いて南へ進むと、陽平元城発干尽く攻め落として3千家余り殺掠し、碻磝津に駐屯した。この時、王亮長史に、尹赤を司馬に、伏子成を左部帥に、斂岐を右部帥に、王黒那を前部帥に、強白を後部帥に、薛讃・権翼参軍任じた同月姚襄前秦軍と戦うも敗れ、3万戸余り失ったその後南下して滎陽に入ると、父の喪を発してこれに服した。さらに、前秦将軍高昌李歴麻田交戦となったが、戦乱最中流れ矢乗っていた馬に当たり、死んでしまった。弟の姚萇は馬を下りて姚襄差し出すと、姚襄は「汝はどうやって免れるのか」と問うたが、姚萇は「ただ兄を救うのみです。それに、豎子青二才)がどうしてこの萇を害することができましょうか」と答えたこの後救援到来したので、共に難を免れることができた。この戦いで尹赤は前秦降伏した4月姚襄配下率いて東晋に帰順し、5人の弟を人質として建康送った。詔が下り姚襄譙城駐屯するよう命じられた。その後姚襄単騎淮河渡って寿春赴くと、東晋安西将軍豫州刺史謝尚のもとを訪ねた謝尚以前より姚襄の名を聞いていたので、武官を引き払わせて平服出迎えると、まるで旧知の仲のように親しく語らい合った6月謝尚前秦征東大将軍張遇の守る許昌攻めると、姚襄もまたこれに従軍した前秦君主苻健丞相苻雄・衛大将軍苻菁に歩騎2万与えて救援に向かわせた。潁水の誡において両軍激突したが、謝尚軍は大敗喫し1万5千の死者出した謝尚淮南逃走したが、姚襄輜重放棄して芍陂まで謝尚護衛した。これ以降謝尚尽く事案について、姚襄付託するようになった353年9月駐屯地歴陽移した前燕前秦精強であったことから北伐時期尚早判断し淮河一帯広く屯田行い将士を訓励した。

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東晋に帰順

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 13:36 UTC 版)

蘇峻」の記事における「東晋に帰順」の解説

317年12月西晋愍帝が漢に捕らえられた後に処刑されると、大興元年318年)、皇族一人であった司馬睿江南の地にて皇帝死後元帝と諡される、以降元帝呼称)への即位宣言し、晋の再興宣言した東晋成立)。当時蘇峻評判元帝の耳にも届くところであり、そのつてあって蘇峻東晋より仮の安集将軍任じられた。 当時東晋後趙二国帰順し青州全域実効支配していた青州刺史曹嶷は、蘇峻掖県県令任じるよう上奏したが、彼は病気理由に受けなかった。蘇峻危険視した曹嶷討伐の兵を興すと、蘇峻は自らの従えていた数百家を伴って海路より南へ渡り江陵にある東晋朝廷へと向かった東晋朝廷遠方から到来した蘇峻歓迎し鷹揚将軍任じた以降後趙寝返った彭城内史周撫の討伐や、明帝の代には王敦による二度目反乱軍残党鎮圧などの功を挙げ東晋内部官位上げていった。最終的には使持節冠軍将軍歴陽内史散騎常侍にまで昇り詰め、邵陵公に封ぜられ、食邑八百戸を与えられている。

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