北伐行へとは? わかりやすく解説

北伐行へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 00:42 UTC 版)

殷浩」の記事における「北伐行へ」の解説

永和8年352年1月殷浩許昌洛陽攻略目論んで北伐敢行上疏すると、詔により許可得た。この時、尚書左丞孔厳は殷浩へ、先人事績ついてよ考え、また北方からの降伏者については重用しないよう勧めたが、殷浩大して気にもとめなかった。また、中軍将軍王羲之は書を送って北伐反対したが、聞き入れなかった。こうして軍を発すると、淮南郡太守陳逵・兗州刺史蔡裔を前鋒とし、安西將軍謝尚北中郎將荀羨を軍の総督とし、江西水田千頃余り開いて軍糧として蓄えた。まさに出発の時、殷浩は馬から落ちてしまった為、当時の人はこれを不吉であるとした。 同月殷浩はまず寿春到達した。 これより以前冉魏豫州牧張遇、荊州刺史楽弘は廩丘許昌などの諸城をもって東晋降伏願い出ていたが、謝尚は張遇の慰撫失敗して彼の怒り買ってしまった。これにより張遇は許昌拠って反旗を翻すと共に、その配下である上官恩もまた洛陽をもって東晋対抗し、楽弘は倉垣において督護戴施を攻めた。これにより殷浩進軍する事が出来なくなった3月殷浩荀羨命じて准陰を鎮守させ、監青州諸軍事を加えたその後しばらくして兗州刺史任じ下邳鎮守させた。 5月冉魏前燕抗争していたが、本拠地の鄴を包囲される至り大将軍蒋幹謝尚救援要請した。これを受けて戴施が救援向かったが、救援応じ見返りとして伝国璽伝国璽は元々西晋にあったが、永嘉の乱により前趙の手落ち後趙経て冉魏渡っていた)を手に入れている。 6月謝尚羌族酋長姚襄と共に、既に前秦寝返っていた張遇の守る許昌攻めた。これを受け、前秦君主苻健丞相苻雄・衛大将軍苻菁に歩騎2万与えて救援に向かわせた。潁水の誡において両軍激突したが、謝尚軍は大敗喫し1万5千の死者出し謝尚淮南逃走した殷浩謝尚敗戦聞き寿春まで撤退した8月殷浩は再び兵を挙げ北伐敢行ようとすると、王羲之は再び書を送ってこれに強く反対し、司馬昱もまた書を送って軽々しく動かぬよう諫めたが、いずれも聞き入れなかった。 9月殷浩は泗口に駐屯すると、河南郡太守戴施に石門を守らせ、滎陽郡太守劉遯に倉垣を守らせた。殷浩北伐軍興した際に太学生徒全員罷免して従軍させたので、学校廃れてしまったという。 10月謝尚冠軍将軍王侠を派遣して許昌攻め、これを陥落させた。これにより前秦豫州刺史楊群は弘農まで後退した羌族酋長姚襄東晋に帰順していたが、殷浩彼の勢力強大である事を妬み、またその威名恐れていた。ある時、姚襄配下殷浩帰順しようとする者がいたが、姚襄はこれを誅殺した。これを聞いた殷浩遂に姚襄誅殺目論み、まずその諸弟を捕らえると、幾度も刺客派遣して姚襄刺殺ようとした。だが、刺客はみな寝返って内情漏らし姚襄は彼らを旧臣のように遇した。 これより以前、魏脱という人物が衆を率いて東晋に帰順していたが、彼が亡くなるに及んで殷浩はその弟である魏憬に部曲統率させていた。殷浩はこの魏憬に五千余りの兵を与えて姚襄を襲わせたが、姚襄はこれを返り討ちにして魏憬を斬り殺し、その兵を吸収した殷浩益々憎しみ深め龍驤将軍劉啓に譙を守らせると、姚襄梁国の蠡台に移らせて上表して梁国内史任じたその後、魏憬の子弟が幾度も寿春往来するうになると、姚襄殷浩謀略益々疑い参軍権翼殷浩の下に派遣した殷浩権翼迎え入れて語り合うと、その意見一定の理解示したものの、両者本心から和解する事は無かったその後殷浩将軍姚襄を討たせたが、姚襄返り討ちにした。これにより、殷浩はさらに激怒した永和9年353年7月前秦では司空張遇が反乱起こし苻健の兄の子である輔国将軍苻黄眉洛陽から西に逃走した。 これより以前殷浩前秦大臣である雷弱児安へ密かに使者派遣し、もし前秦皇帝苻健殺したならば関中統治認めると伝えた雷弱児偽ってこれを受け入れ東晋軍が到来すればこれに応じると返答していた。その為、張遇の反乱聞いた殷浩は、雷弱児らの計画始まったのだと考えた10月殷浩上表し、洛陽進んで園陵を修復する事を請うた。また、揚州刺史解任洛陽駐留専任求めたが、これについては朝廷許されなかった。吏部尚書王彪之・会稽王司馬昱は手紙送って「弱児ら受け入れ偽りであり、浩はこれに応じずに軽々しく進まないように」と述べたが、従わなかった。 殷浩は軍を発する姚襄その先鋒とし、冠軍將軍劉洽に鹿台を守らせ、建武将軍の劉遁に倉垣を守らせた。姚襄はこれに呼応する振りをして兵を率いて北へ向かうと、殷浩到来する頃合い見計らい密かに夜闇紛れて伏兵配した殷浩はこれを事前に察知すると、姚襄追って山桑まで至ったが、返り討ち遭って大敗喫した。その為、輜重放棄して逃走すると、譙城入った姚襄1万余りを俘斬し、その物資を尽く手に入れた捕らえた士卒多く逃亡すると、姚襄は兄の曜武将軍姚益に山桑の砦を守らせ、自らは淮南向かった11月殷浩龍驤将軍劉啓王彬之を派遣して山桑攻撃すると、姚襄淮南から救援向かい劉啓王彬之を破って両者討ち取ったその後姚襄進軍して芍陂に拠った。

※この「北伐行へ」の解説は、「殷浩」の解説の一部です。
「北伐行へ」を含む「殷浩」の記事については、「殷浩」の概要を参照ください。

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