北伐行へ
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永和8年(352年)1月、殷浩は許昌・洛陽の攻略を目論んで北伐の敢行を上疏すると、詔により許可を得た。この時、尚書左丞孔厳は殷浩へ、先人の事績についてよく考え、また北方からの降伏者については重用しないよう勧めたが、殷浩は大して気にもとめなかった。また、中軍将軍王羲之は書を送って北伐に反対したが、聞き入れなかった。こうして軍を発すると、淮南郡太守陳逵・兗州刺史蔡裔を前鋒とし、安西將軍謝尚・北中郎將荀羨を軍の総督とし、江西の水田千頃余りを開いて軍糧として蓄えた。まさに出発の時、殷浩は馬から落ちてしまった為、当時の人はこれを不吉であるとした。 同月、殷浩はまず寿春へ到達した。 これより以前、冉魏の豫州牧張遇、荊州刺史楽弘は廩丘・許昌などの諸城をもって東晋に降伏を願い出ていたが、謝尚は張遇の慰撫に失敗して彼の怒りを買ってしまった。これにより張遇は許昌に拠って反旗を翻すと共に、その配下である上官恩もまた洛陽をもって東晋に対抗し、楽弘は倉垣において督護戴施を攻めた。これにより殷浩は進軍する事が出来なくなった。3月、殷浩は荀羨に命じて准陰を鎮守させ、監青州諸軍事を加えた。その後しばらくして領兗州刺史に任じ、下邳を鎮守させた。 5月、冉魏は前燕と抗争していたが、本拠地の鄴を包囲されるに至り、大将軍蒋幹は謝尚に救援を要請した。これを受けて戴施が救援に向かったが、救援に応じる見返りとして伝国璽(伝国璽は元々西晋にあったが、永嘉の乱により前趙の手に落ち、後趙を経て冉魏に渡っていた)を手に入れている。 6月、謝尚は羌族酋長姚襄と共に、既に前秦に寝返っていた張遇の守る許昌を攻めた。これを受け、前秦君主苻健は丞相苻雄・衛大将軍苻菁に歩騎2万を与えて救援に向かわせた。潁水の誡橋において両軍は激突したが、謝尚軍は大敗を喫し、1万5千の死者を出し、謝尚は淮南へ逃走した。殷浩は謝尚の敗戦を聞き、寿春まで撤退した。 8月、殷浩は再び兵を挙げて北伐を敢行しようとすると、王羲之は再び書を送ってこれに強く反対し、司馬昱もまた書を送って軽々しく動かぬよう諫めたが、いずれも聞き入れなかった。 9月、殷浩は泗口に駐屯すると、河南郡太守戴施に石門を守らせ、滎陽郡太守劉遯に倉垣を守らせた。殷浩は北伐軍を興した際に太学の生徒を全員罷免して従軍させたので、学校は廃れてしまったという。 10月、謝尚は冠軍将軍王侠を派遣して許昌を攻め、これを陥落させた。これにより前秦の豫州刺史楊群は弘農まで後退した。 羌族酋長姚襄は東晋に帰順していたが、殷浩は彼の勢力が強大である事を妬み、またその威名を恐れていた。ある時、姚襄の配下で殷浩に帰順しようとする者がいたが、姚襄はこれを誅殺した。これを聞いた殷浩は遂に姚襄誅殺を目論み、まずその諸弟を捕らえると、幾度も刺客を派遣して姚襄を刺殺しようとした。だが、刺客はみな寝返って内情を漏らし、姚襄は彼らを旧臣のように遇した。 これより以前、魏脱という人物が衆を率いて東晋に帰順していたが、彼が亡くなるに及んで殷浩はその弟である魏憬に部曲を統率させていた。殷浩はこの魏憬に五千余りの兵を与えて姚襄を襲わせたが、姚襄はこれを返り討ちにして魏憬を斬り殺し、その兵を吸収した。殷浩は益々憎しみを深め、龍驤将軍劉啓に譙を守らせると、姚襄を梁国の蠡台に移らせて上表して梁国内史に任じた。その後、魏憬の子弟が幾度も寿春を往来するようになると、姚襄は殷浩の謀略を益々疑い、参軍権翼を殷浩の下に派遣した。殷浩は権翼を迎え入れて語り合うと、その意見に一定の理解を示したものの、両者が本心から和解する事は無かった。その後、殷浩は将軍謝万に姚襄を討たせたが、姚襄は返り討ちにした。これにより、殷浩はさらに激怒した。 永和9年(353年)7月、前秦では司空張遇が反乱を起こし、苻健の兄の子である輔国将軍苻黄眉が洛陽から西に逃走した。 これより以前、殷浩は前秦の大臣である雷弱児・梁安へ密かに使者を派遣し、もし前秦皇帝苻健を殺したならば関中の統治を認めると伝えた。雷弱児は偽ってこれを受け入れ、東晋軍が到来すればこれに応じると返答していた。その為、張遇の反乱を聞いた殷浩は、雷弱児らの計画が始まったのだと考えた。 10月、殷浩は上表し、洛陽に進んで園陵を修復する事を請うた。また、揚州刺史の解任と洛陽駐留の専任を求めたが、これについては朝廷に許されなかった。吏部尚書王彪之・会稽王司馬昱は手紙を送って「弱児らの受け入れは偽りであり、浩はこれに応じずに軽々しく進まないように」と述べたが、従わなかった。 殷浩は軍を発すると姚襄をその先鋒とし、冠軍將軍劉洽に鹿台を守らせ、建武将軍の劉遁に倉垣を守らせた。姚襄はこれに呼応する振りをして兵を率いて北へ向かうと、殷浩が到来する頃合いを見計らい、密かに夜闇に紛れて伏兵を配した。殷浩はこれを事前に察知すると、姚襄を追って山桑まで至ったが、返り討ちに遭って大敗を喫した。その為、輜重を放棄して逃走すると、譙城に入った。姚襄は1万人余りを俘斬し、その物資を尽く手に入れた。捕らえた士卒の多くが逃亡すると、姚襄は兄の曜武将軍姚益に山桑の砦を守らせ、自らは淮南へ向かった。 11月、殷浩は龍驤将軍劉啓・王彬之を派遣して山桑を攻撃すると、姚襄は淮南から救援に向かい、劉啓・王彬之を破って両者を討ち取った。その後、姚襄は進軍して芍陂に拠った。
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