北伐参加までとは? わかりやすく解説

北伐参加まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/17 20:09 UTC 版)

孫蔚如」の記事における「北伐参加まで」の解説

郷紳家庭生まれる。1910年宣統2年)、咸長初等実業学校入学し、後に長安高等小学校進学した1913年民国2年)、西北大学予科入学し同年冬、陝西陸軍測量学校に転入している。1915年民国4年)夏に卒業し陝西陸軍測量局地形課で勤務したこの頃孫文孫中山)の革命思想傾倒し翌年中華革命党に加入している。1917年民国6年)末に、孫は胡景翼率い陝西靖国軍加入し陝西督軍陳樹藩との戦いで軍功をあげて地位上げていく。後に胡が後任陝西督軍馮玉祥帰服しても、孫は楊虎城の下で靖国軍の旗幟かかげて戦い続けた1924年民国13年)、馮・胡らが北京政変首都革命)を起こし国民軍結成すると、楊・孫もこれに陝西国民軍として合流した1926年民国15年初めに、鎮嵩軍を率い劉鎮華大軍西安包囲されたが、楊虎城孫蔚如らは8か月にわたり懸命に防戦最後馮玉祥派遣した援軍おかげで劉を撃破している。西安危機克服した後、楊は国民革命軍第2集団第10軍軍長任命され、孫もその下で第10軍参謀長、第2師師長代理などを歴任している。1927年民国16年)、北伐一環山東省方面北京政府側の張宗昌軍と戦い、これを撃破した1928年民国17年)春、楊が日本視察赴いたため、孫が第10軍軍長代理就任するその後第10軍安徽省河南省山東省駐留地点をしばしば移された。 この頃中国共産党粛清国民政府中央実施され楊虎城孫蔚如らもそれを求められていたが、2人はこれを軍を瓦解させるだけの行為として拒否した。孫が軍長代理となった直後、軍内にいた共産党士官第10軍内で蜂起する動き見せた。孫はこれを鎮圧する一方で過剰な粛清実践せず、軍内から共産党人士追放するだけに止めた1929年民国18年)からの蒋介石派と反蒋派の戦いには、楊・孫は直接参加していない。中原大戦後の1930年民国19年10月に楊が陝西省政府主席任命されると、孫も第17師長昇進し陝西省戻った

※この「北伐参加まで」の解説は、「孫蔚如」の解説の一部です。
「北伐参加まで」を含む「孫蔚如」の記事については、「孫蔚如」の概要を参照ください。

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