陝西靖国軍
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護国戦争終結後は、胡景翼は陝西第1旅混成第2団団長となり、陝西省南部に駐留した。しかし、督軍の陳樹藩は胡景翼を猜疑し、胡もいずれは陳を倒そうと機を窺うなど、両者の関係は次第に悪化していく。1918年(民国7年)1月、胡は曹世英とともに、郭堅(中国語版)が護法戦争に呼応し組織した陝西靖国軍に加わり、三原(陝西省中部)で決起した。胡は右翼総司令、曹は左翼総司令として、陳に挑戦することになる。劣勢となった陳は、河南省の鎮嵩軍統領である劉鎮華を陝西省長の地位をもって味方に引き込む。このため、今度は胡が劣勢に置かれた。 胡景翼は南方政府との関係を強化するため、雲南省の唐継尭と連携する。さらに、孫文が派遣してきた于右任を陝西靖国軍総司令として擁立し、胡は第4路総司令として前線に立った。しかし8月に、胡が陳樹藩側の姜宏模の軍を説得しようと訪問したところ、姜に拘留されてしまう。さらに陳に引き渡されて西安で軟禁下に置かれた。陳は胡に降伏するよう勧めたが、胡は応じようとしなかった。 1920年(民国9年)7月に安直戦争が勃発すると、安徽派の陳樹藩は省内の人心を得るため胡景翼を釈放した。胡は三原に戻り、陝西靖国軍副司令兼総指揮に任命された。胡は、三原近隣を靖国軍の自立圏として、軍事改革、政治改革、地方建設に励み、成果も大きなものであった。そのため、胡は孫文らから賞賛を受けている。 しかし、1921年(民国10年)5月に陳樹藩が更迭され、直隷派の閻相文が後任の陝西督軍となり、さらに7月に馮玉祥率いる第16混成旅も入ってくる。閻・馮は離任を拒んで武力抵抗の準備を進めていた陳樹藩打倒のため、胡景翼や靖国軍を取り込もうとする。結局、胡はこれに応じ、馮と挟撃して陳樹藩を駆逐した。更に靖国軍の称号を取り消し、陝西軍に復帰して第1師長となった。しかし、この事態については、孫文・于右任らから激しい非難を浴びた。8月に閻相文は自殺したため、以降は陝西督軍となった馮玉祥の配下につくこととなる。
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