陝西靖国軍とは? わかりやすく解説

陝西靖国軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 21:39 UTC 版)

胡景翼」の記事における「陝西靖国軍」の解説

護国戦争終結後は、胡景翼陝西第1旅混成第2団団長となり、陝西省南部駐留した。しかし、督軍陳樹藩胡景翼猜疑し、胡もいずれは陳を倒そうと機を窺うなど、両者の関係次第悪化していく。1918年民国7年1月、胡は曹世英とともに、郭堅(中国語版)が護法戦争呼応し組織した陝西靖国軍に加わり三原陝西省中部)で決起した。胡は右翼総司令、曹は左翼総司令として、陳に挑戦することになる。劣勢となった陳は、河南省鎮嵩軍統領である劉鎮華陝西省長の地位をもって味方引き込むこのため今度は胡が劣勢に置かれた。 胡景翼南方政府との関係強化するため、雲南省唐継尭連携する。さらに、孫文派遣してきた于右任を陝西靖国軍総司令として擁立し、胡は第4路総司令として前線立った。しかし8月に、胡が陳樹藩側の姜宏の軍を説得しよう訪問したところ、姜に拘留されてしまう。さらに陳に引き渡され西安軟禁下に置かれた。陳は胡に降伏するよう勧めたが、胡は応じようとしなかった。 1920年民国9年7月安直戦争勃発すると、安徽派陳樹藩は省内の人心を得るため胡景翼釈放した。胡は三原戻り、陝西靖国軍副司令兼総指揮任命された。胡は、三原近隣靖国軍の自立圏として、軍事改革政治改革地方建設励み成果大きなものであった。そのため、胡は孫文らから賞賛受けている。 しかし、1921年民国10年5月陳樹藩更迭され直隷派閻相文後任陝西督軍となり、さらに7月馮玉祥率いる第16混成旅も入ってくる。閻・馮は離任拒んで武力抵抗準備進めていた陳樹藩打倒のため、胡景翼靖国軍を取り込もうとする。結局、胡はこれに応じ、馮と挟撃して陳樹藩駆逐した。更に靖国軍の称号取り消し陝西軍に復帰して第1師長となった。しかし、この事態については、孫文于右任らから激し非難浴びた8月閻相文自殺したため、以降陝西督軍となった馮玉祥配下につくこととなる。

※この「陝西靖国軍」の解説は、「胡景翼」の解説の一部です。
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