陝西省の支配者にとは? わかりやすく解説

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陝西省の支配者に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 14:57 UTC 版)

劉鎮華」の記事における「陝西省の支配者に」の解説

1920年民国9年7月安直戦争勃発して安徽派敗北すると、それを後ろ盾にしていた陳樹藩権威揺らぐ。そして、まもなく直隷派の第20師長閻相文陝西督軍として赴任してきた。陳樹藩離任拒んで陝西省居座り続けていたが、劉鎮華は閻に寝返って馮玉祥の第16混成旅、呉新田の第7師とともに陳の掃討協力し陝西省長の地位維持した。鎮嵩軍は入陝前の1千人~4千人から4万人余りへ、のち1925年時点では10万人へと勢力拡大したその後まもなく、閻相文自殺すると、第11師長馮玉祥後任督軍就任する劉鎮華は馮に接近してその信任を得ることに成功し義兄弟契り(「換譜兄弟」)を結んだ1922年民国11年4月第1次奉直戦争で馮が河南省出撃すると、陝西督軍地位は劉に委譲された。のち、省長も兼任した。劉の陝西治世は、腐敗暴力まみれたのだったと言われアヘン栽培暴利むさぼった一方で教育には熱心で、1923年9月西安第二次国立西北大学中国語版創設携わるが、皮肉にものち劉自ら西安包囲戦1926年10月壊滅させてしまっている。 1924年民国13年9月第2次奉直戦争でも、劉鎮華直隷派として奉天派戦い配下の憨玉琨(中国語版)を河南方面出撃させた。しかし同年10月馮玉祥北京政変首都革命)を発動するという新たな事態直面し、劉の姿勢立場混迷し始める当初自身は、呉佩孚率い直隷派そのまま頼みとして、馮の国民軍と戦うよう憨に命じた。ところが憨は国民軍の方が頼りになるとみなし、独断国民軍側に寝返り、呉を撃破し洛陽占拠してしまう。これにより、劉も情勢流されるまま、国民軍支持転じたのである。 しかし同年12月河南督軍任命され国民軍副司令兼第2軍軍長胡景翼と憨玉琨との間で、河南省をめぐる地盤争い(「胡憨之戦」)が勃発する当初馮玉祥両者調停させようとして、国民軍副司令兼第3軍軍長孫岳派遣した。しかし、劉鎮華と憨の野心深く1925年民国14年2月25日には陝西督軍地位呉新田任せて劉自ら洛陽乗り込み胡軍攻撃する。これにより、3月6日交渉決裂し全面対決至った精鋭部隊である国民軍率い胡景翼の方が優勢となり、3月9日には、劉鎮華洛陽から駆逐されてしまう。さらに4月2日、憨玉琨も撃破されて自決した。こうして胡憨之戦は、胡の完勝終わったのである(ただし、4月10日に胡は急逝している)。劉は山西省の运城に逃走して閻錫山身を寄せた

※この「陝西省の支配者に」の解説は、「劉鎮華」の解説の一部です。
「陝西省の支配者に」を含む「劉鎮華」の記事については、「劉鎮華」の概要を参照ください。

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