陝西省の支配者に
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1920年(民国9年)7月に安直戦争が勃発して安徽派が敗北すると、それを後ろ盾にしていた陳樹藩の権威は揺らぐ。そして、まもなく直隷派の第20師師長閻相文が陝西督軍として赴任してきた。陳樹藩は離任を拒んで陝西省に居座り続けていたが、劉鎮華は閻に寝返って馮玉祥の第16混成旅、呉新田の第7師とともに陳の掃討に協力し、陝西省長の地位を維持した。鎮嵩軍は入陝前の1千人~4千人から4万人余りへ、のち1925年時点では10万人へと勢力を拡大した。 その後まもなく、閻相文が自殺すると、第11師師長の馮玉祥が後任督軍に就任する。劉鎮華は馮に接近してその信任を得ることに成功し、義兄弟の契り(「換譜兄弟」)を結んだ。1922年(民国11年)4月の第1次奉直戦争で馮が河南省へ出撃すると、陝西督軍の地位は劉に委譲された。のち、省長も兼任した。劉の陝西治世は、腐敗と暴力にまみれたものだったと言われ、アヘン栽培で暴利をむさぼった。一方で教育には熱心で、1923年9月に西安で第二次国立西北大学(中国語版)創設に携わるが、皮肉にものち劉自ら西安包囲戦で1926年10月に壊滅させてしまっている。 1924年(民国13年)9月の第2次奉直戦争でも、劉鎮華は直隷派として奉天派と戦い、配下の憨玉琨(中国語版)を河南方面に出撃させた。しかし同年10月に馮玉祥が北京政変(首都革命)を発動するという新たな事態に直面し、劉の姿勢や立場が混迷し始める。当初劉自身は、呉佩孚率いる直隷派をそのまま頼みとして、馮の国民軍と戦うよう憨に命じた。ところが憨は国民軍の方が頼りになるとみなし、独断で国民軍側に寝返り、呉を撃破して洛陽を占拠してしまう。これにより、劉も情勢に流されるまま、国民軍支持に転じたのである。 しかし同年12月、河南督軍に任命された国民軍副司令兼第2軍軍長胡景翼と憨玉琨との間で、河南省をめぐる地盤争い(「胡憨之戦」)が勃発する。当初、馮玉祥は両者を調停させようとして、国民軍副司令兼第3軍軍長孫岳を派遣した。しかし、劉鎮華と憨の野心は深く、1925年(民国14年)2月25日には陝西督軍の地位を呉新田に任せて劉自ら洛陽に乗り込み、胡軍を攻撃する。これにより、3月6日に交渉は決裂し、全面対決に至った。 精鋭部隊である国民軍を率いる胡景翼の方が優勢となり、3月9日には、劉鎮華は洛陽から駆逐されてしまう。さらに4月2日、憨玉琨も撃破されて自決した。こうして胡憨之戦は、胡の完勝に終わったのである(ただし、4月10日に胡は急逝している)。劉は山西省の运城に逃走して閻錫山に身を寄せた。
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