第1次奉直戦争
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同年末、張作霖が支持する梁士詒(旧安徽派)が、直隷派の反対にもかかわらず国務総理に就任したため、両派の対立は決定的となった。翌1922年(民国11年)1月、呉佩孚は梁を「売国奴」と非難し、4月に両派の激突に至る(第1次奉直戦争)。この時は呉率いる直隷派軍が精強であり、各地で奉天派軍を撃破、張を山海関の外へ駆逐した。 第1次奉直戦争での戦功により呉佩孚は直隷派内で勢力を拡大、曹錕を凌ぐ勢いを見せ始める。同年6月、呉は大総統徐世昌を辞任に追い込んで黎元洪を後任に擁立するに至った。この際に呉は陸軍総長に任命されたが8月には辞任、両湖巡閲使にとどまっている。黎元洪を擁立して国内統一を進めようとした呉だったが、大総統の地位を狙う曹は黎の就任に不満を抱いた。このため、直隷派内において曹らの「保定派」と呉らの「洛陽派」との対立が勃発することになる。
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