北方各派から満州国へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 02:40 UTC 版)
7月の安直戦争で安徽派が敗北すると、張敬尭は奉天派の張作霖を頼り、その上客となった。しかし、1922年(民国11年)の第1次奉直戦争で奉天派が敗北すると、張敬尭は呉佩孚に寝返っている。1924年(民国13年)10月の北京政変で、馮玉祥により逮捕されてしまうが、まもなく釈放された。 1925年(民国14年)、山東省の張宗昌を頼り、直魯聯軍第2軍軍長に任命された。1926年(民国15年)、安国軍第2方面軍副司令をつとめるなどして中国国民党の北伐軍と戦った。しかし1928年(民国17年)9月、張宗昌の敗北とともに、張敬尭も下野し、大連へ逃亡した。 1932年(民国21年)、張敬尭は満州国に降る。1933年(民国22年)には平津第2集団軍総司令に任命されるなどして、華北で各種軍事・謀略活動に従事した。その一環で、張は密かに北平(北京)入りし、旧部下たちを組織して日本軍に呼応しようとした。 しかし5月7日、北平の東交民巷六国飯店(ホテル)において、張敬尭は軍統の刺客に襲撃され、殺害された。享年54(満52歳)。
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