北方商圏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:11 UTC 版)
不振だったのはバルト海と北海を抱える北方も同じであった。リューベックを盟主とするハンザ同盟は、その影響力を著しく減退させ、1635年には事実上解体してハンブルクやブレーメンなど北ドイツの各都市経済をいっそう衰退させた。南ドイツでも、アウクスブルクやニュルンベルクなどの諸都市の影響力は減退し、市民たちは所領や称号の取得にいそしんだものの、それ以外の商工業活動は活発ではなかった。その原因としてはやはり、インフレーションや英・独・ポーランド・北欧諸国の貨幣の改悪、投機商人の暗躍や投資意欲の低下、これらが帰結する信用全般の低下があった。王朝的権力政治の名残りをとどめる当時にあって、逼迫した戦時財政下、権力者が戦費調達のために用いた安易な手段が貨幣改悪であった。ドイツではこの時代を「贋金時代」と呼ぶことがあるが、脆弱な帝権を戴いていたドイツにあっては他国が統一国家へ向かう途上にあったとき、貨幣鋳造権が次第に領邦君主や都市の手に移りつつあったため、戦争の惨禍とともにいっそうの混乱を招いたのである。そして、ここでも疫病の流行とそれに対する予防措置は物流経済に深刻な打撃を与えたのであった。 内陸諸都市でも海港の検疫制度に似た予防策がとられたが、いっそうきめ細やかなものであった。各都市の保健衛生局は近隣都市で感染症が流行すると、市門の監視を厳格化し、流行地からの旅行者や乞食の入市を拒否し、街路の清掃を徹底し、旅宿の監督を厳しくして流行地からの商品には消毒を命じた。さらに状況が悪くなると、食糧を確保し、隔離病棟を用意した上で他都市との取引を停止し、自らの城壁の中に閉じこもらざるをえなくなった。しかし、このような措置は商工業の全過程の中断を余儀なくさせるものであり、中小の手工業者や商人に失業・廃業の脅威を与えるものにほかならなかった。 こうして地中海商圏、北方商圏の二大中心地は衰退し、例外的に北海沿岸のオランダでは商工業の発展をみたが、それも1670年代には毛織物業、漁業、中継貿易のいずれも振るわなくなり、造船業もオランダ東インド会社も停滞し、のこる金融業が18世紀以降、活路を見出さなければならないという状況になった。
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