地中海商圏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:11 UTC 版)
地中海地域における海港および定期市の活動に表面的には大きな変化はなかったし、ジェノヴァ共和国がこの地域の銀行業の一大中心地であることにも変わりはなかったが、スペインにとって花形輸出商品であった羊毛もイタリアの人気輸出商品であった毛織物も需要が落ち込み、両地域での商工業は不振であった。スペインでは熟練手工業者として知られたイスラームからの改宗住民、モリスコを1609年に追放したこと(「モリスコ追放」)、イタリアでは織物技術の停滞がみられることなど個別の事情も手伝ったが、より大きな視点からは、不振の原因としてアメリカ大陸から流入した貴金属などによるインフレーションや通貨の改悪、課税の強化などがあり、さらに感染爆発とその予防措置に費やす時間と労力の存在を指摘することができる。 すなわち、近東諸地域との貿易が盛んな地中海沿岸部では、当該地域からのペストや発疹チフスの襲来に幾度となく悩まされてきたのであり、沿岸諸港では疫病の流行を食い止めるための検疫システムが導入された。感染症の流行地から入港した船舶は、健康証明書を必要とし、それを所持しない場合は指定区域に40日間留め置かれ、異常のないことを証明しないことには商人・人夫も商品も上陸を認められなかったのである。この規定により、多くの業者が商品を目の前にして40日間待機させられた。これは、流通経済の上では大きな障害となったし、貿易業者の受けた損害も膨大なものだったのである。1720年代初頭の「マルセイユの大ペスト」も、検疫に回された近東からの積み荷を数週間後に迫ったボーケール(ガール県)の定期市に出荷するため、一刻も早く荷下ろししようとした商人の圧力でマルセイユ市当局が検疫期間を20日間に短縮し、ペスト患者と菌に汚染された商品を上陸させたために生じた災禍であった。 スペイン・ハプスブルク家の立場からは、北イタリアのポー平原からアルプス山脈の西側を通り、アルザスなどを経てフランドル地方に至る回廊が当時「スペイン街道」と呼ばれて、「大スペイン王国」を支える生命線となっていた。三十年戦争へのスペインの早期の参戦も、ミラノ公国からブリュッセルに至るこの回廊を死守しようとしてのものと考えられ、フランスは自国の東側国境近くを通るスペイン街道の分断を常に戦略目標に掲げていた。フランス・スペイン両国の対立はやがて全面戦争に発展し、ヨーロッパを縦貫する街道もしばしば戦場となり、フランスの勝利によってスペインの掌中から離れた。
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