フランスの勝利 (1756年-1757年)
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「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「フランスの勝利 (1756年-1757年)」の解説
フランス陸軍が1756年5月に北アメリカに送り込んだのは、オーストリア継承戦争で経験を積んだルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム少佐、そしてシュール・ド・レビと、フランソワ=シャルル・ド・ブールラマク(英語版)大佐だった。モンカルムはすでにオーストリア継承戦争で経験を積んでいた。この1756年5月18日、イギリスはフランスに正式に宣戦布告し、ヨーロッパにも戦火が拡大した。ヨーロッパでの戦いは七年戦争と呼ばれた。 詳細は「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」を参照 ヌーベルフランス総督ヴォードルイユは、1756年の春にモンカルムの到着を決して喜んではいなかった。ヴォードルイユは行政も軍事も自身の一手に収めたがっており、モンカルムと役割分担をすることで、この両者の間に不信感がくすぶるようになった。モンカルムもそれを感じ取っていた。また、インディアンとの同盟にもとまどっていた。特に、相手がだれであろうが、殺し方が残忍で頭皮を剥ぐやり方について、自身の母親に手紙を書き送っている。しかしその後、フランス軍はカリヨン砦から南に異動して、ウィリアム・ヘンリー砦を4日間にわたって攻撃し、ここを攻め落とした。フランスの非正規兵(カナダ人偵察兵とインディアン兵)は、1757年の前半一杯ウィリアム・ヘンリー砦を攻撃した。 精力的に攻め続けるフランス軍とは対照的に、ルードゥーンは官僚的でなかなか腰を上げなかったが 同じ1757年、ルードゥーンは、植民地担当の南部担当国務大臣ウィリアム・ピットに指示されるまま、次席指揮官のジェームズ・アバークロンビーとフランス軍との交戦のためにまずルイブールを目指した。しかし準備の遅れが災いして、遠征軍がハリファックスからの出航準備ができたのは8月の始めだった。その間にフランス艦は、フランス本国沿岸のイギリスの封鎖を逃れ、北アメリカのイギリス艦隊に数で勝るフランス艦隊が、ルイブールでルードゥーンを待ち受けていた。この戦力を目の当たりにしたルードゥーンはボストンへ引き返したが、すでにウィリアム・ヘンリー砦は崩壊していた。 1月にはタイコンデロガ(カリヨン砦)の近くで第一次かんじきの戦いが起こった。2月には、フランスの非正規兵は、結氷したジョージ湖を挟んでの対岸に襲撃を仕掛け、倉庫と砦の外にある建物を壊した。8月の始めには、モンカルムと7000人の軍勢が砦を包囲し、イギリス軍は、条件付きの撤退を認めるのに合意して降伏した。撤退が始まった時、モンカルムのインディアン同盟兵が、虐殺の機会が失われたことに怒り、イギリス軍の縦隊を攻撃して、数百人の男女、子供、そして奴隷を殺し、また捕囚した。この包囲戦の余波として、おそらくは遠くへのインディアンへの天然痘の伝染もあった。インディアン兵の一部は、この作戦に参加するため、ミシシッピ川のかなたから来たものもいたと言われている。
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フランスの勝利
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アバークロンビーは午後1時に戦闘が始まると予想しており、12時半までにニューヨーク連隊の部隊を、交戦に向けて配置していた。その時ハヴィランドは、敵が攻めて来る音に気付き、また、フランスの陣形が前に出ているのが分かった。そのためハヴィランドは兵に出撃を命じた、すべての正規兵がまだ配置についていなかったにもかかわらず、そして、アバークロンビーが、出撃命令を下していないにもかかわらず、整然と、秩序だったと言うよりは、むしろちびちびと前進を続けてフランス陣に入り、戦闘に臨んだ。イギリス軍正規兵の中隊が前に出て、命令通りに陣形を作り、そして前進した。右翼の縦隊はいちばん短距離で移動できたため、最初に攻撃を仕掛け、中央、左翼と援軍に回った。第42隊は、始めのうちは予備に回っていたが、戦闘への参加を強く要請し、合流した。 フランスはその陣地からして、イギリス軍が前進するにつれ、砲撃でひるませることが可能であり、逆茂木はてきめんに流血の場と化した。午後2時頃には、イギリス側の一次攻撃は、明らかに失敗していた。モンカルムは軍服の上着を脱いで、兵の間を回り、彼らに檄を飛ばして、やるべきことをすべてやっていると確認させた 。アバークロンビーは、フランシス・パークマンやトマス・マンテのような歴史家が伝えるところでは、戦場からかなり離れた製材所のところにいた。側近の方のアバークロンビーが伝えるところによると、戦闘が始まってしばらくの後、フランスの陣形の前に接近したとのことだが 戦闘が行われている時間の大部分を、ラ・シュート川のそば、戦列の最後尾の近くで過ごした。最初の攻撃が失敗したその後で、アバークロンビーが次の攻撃にこだわったのがなぜなのか、それは定かでない。彼の弁護をさせてもらうと、アバークロンビーはクラークの判断頼りだった、クラークの言うことならたやすく受け入れられたのだ。しかし一次攻撃の失敗により、これは誤っていたことが証明された。 2時近くになって、イギリス軍はラ・シュート川に流していた大砲をはしけで運び、計画とは逆に、ラ・シュート川の島と川岸の間の水路へ下った。このため、彼らはフランス軍左翼と、砦の一部の大砲との射程に入ってしまった。砦の南西の稜堡の大砲から砲弾が発射され、2隻のはしけが沈められ、他の船は大急ぎで引き返した。 アバークロンビーは予備待機のコネチカットとニュージャージーの植民地軍に、午後2時頃に戦闘に参加するように命じたが、2時半までには、攻撃の失敗が明らかになった。そこでアバークロンビーは、部隊を呼び戻したが、肝心な番号の部隊、特にイギリス軍左翼の第42と第46の連隊が、攻撃にこだわっていた。午後5時頃、第42隊は自暴自棄になって前進し、フランスの砦の基点までたどり着くことはできた。それから彼らは実際に胸堡をよじ登り始めた、しかしそこには銃剣を持った兵が待ち構えていた。あるイギリス軍の立会人はこう記している。「我が軍の行動は拙速に過ぎた」またもう一人の立会人によれば、兵たちは「草のようになぎ倒された」 夜になるまで攻防が続き、多くの兵が、戦場の背後に作られた胸堡の陰に退却した。 ついに、アバークロンビーは、戦況が大惨事の域に達したことを悟り、各部隊に、兵を集めてジョージ湖の上陸地点に戻るよう命令した。暗い森の中を退却する中で、兵たちは恐れおののき、混乱した。しかも彼らの間で、フランスが攻撃を仕掛けて来るという噂が渦巻いていた。翌日の明け方、イギリス軍はジョージ湖を船で移動し、日暮れ頃に南岸の基地に着いた。一部の兵士たちが、この退却を屈辱的ととらえているのが、誰の目にも明らかだった。中佐のアートマス・ウォードはこう書き残している、兵たちは「恥ずべき退却をした」。
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