フランスの勝利とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > フランスの勝利の意味・解説 

フランスの勝利 (1756年-1757年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:05 UTC 版)

フレンチ・インディアン戦争」の記事における「フランスの勝利 (1756年1757年)」の解説

フランス陸軍1756年5月北アメリカ送り込んだのは、オーストリア継承戦争経験積んだルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム少佐、そしてシュール・ド・レビと、フランソワ=シャルル・ド・ブールラマク(英語版大佐だった。モンカルムはすでにオーストリア継承戦争経験積んでいた。この1756年5月18日イギリスフランス正式に宣戦布告しヨーロッパにも戦火拡大したヨーロッパで戦い七年戦争呼ばれた詳細は「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」を参照 ヌーベルフランス総督ヴォードルイユは、1756年春にモンカルム到着決し喜んではいなかった。ヴォードルイユは行政軍事自身一手収めたがっており、モンカルム役割分担をすることで、この両者の間に不信感くすぶるようになったモンカルムもそれを感じ取っていた。また、インディアンとの同盟にもとまどっていた。特に、相手がだれであろうが、殺し方が残忍頭皮剥ぐやり方について、自身母親手紙書き送っている。しかしその後フランス軍カリヨン砦から南に異動してウィリアム・ヘンリー砦4日間にわたって攻撃し、ここを攻め落としたフランス非正規兵(カナダ人偵察兵インディアン兵)は、1757年前半一杯ウィリアム・ヘンリー砦攻撃した精力的に攻め続けフランス軍とは対照的に、ルードゥーンは官僚的でなかなか腰を上げなかったが 同じ1757年、ルードゥーンは、植民地担当南部担当国務大臣ウィリアム・ピット指示されるまま、次席指揮官ジェームズ・アバークロンビーフランス軍との交戦のためにまずルイブール目指した。しかし準備の遅れが災いして遠征軍ハリファックスからの出航準備ができたのは8月始めだった。その間フランス艦は、フランス本国沿岸イギリス封鎖逃れ北アメリカイギリス艦隊に数で勝るフランス艦隊が、ルイブールでルードゥーンを待ち受けていた。この戦力目の当たりにしたルードゥーンはボストン引き返したが、すでにウィリアム・ヘンリー砦崩壊していた。 1月にはタイコンデロガカリヨン砦)の近く第一次かんじきの戦い起こった2月には、フランス非正規兵は、結氷しジョージ湖挟んで対岸襲撃仕掛け倉庫と砦の外にある建物壊した8月始めには、モンカルム7000人の軍勢が砦を包囲しイギリス軍は、条件付き撤退認めるのに合意して降伏した撤退始まった時、モンカルムインディアン同盟兵が、虐殺機会失われたことに怒りイギリス軍縦隊攻撃して数百人の男女子供、そして奴隷殺し、また捕囚した。この包囲戦余波として、おそらくは遠くへインディアンへの天然痘伝染もあった。インディアン兵の一部は、この作戦参加するため、ミシシッピ川のかなたから来たものもいと言われている。

※この「フランスの勝利 (1756年-1757年)」の解説は、「フレンチ・インディアン戦争」の解説の一部です。
「フランスの勝利 (1756年-1757年)」を含む「フレンチ・インディアン戦争」の記事については、「フレンチ・インディアン戦争」の概要を参照ください。


フランスの勝利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 02:05 UTC 版)

カリヨンの戦い」の記事における「フランスの勝利」の解説

アバークロンビー午後1時に戦闘が始まると予想しており、12時半までにニューヨーク連隊部隊を、交戦向けて配置していた。その時ハヴィランドは、敵が攻めて来る音に気付きまた、フランス陣形前に出ているのが分かった。そのためハヴィランドは兵に出撃命じたすべての正規兵がまだ配置についていなかったにかかわらず、そして、アバークロンビーが、出撃命令下していないにもかかわらず整然と秩序だったと言うよりは、むしろちびちび前進続けてフランス陣に入り戦闘臨んだイギリス軍正規兵の中隊前に出て命令通り陣形作り、そして前進した右翼縦隊はいちばん短距離移動できたため、最初に攻撃仕掛け中央左翼援軍回った。第42隊は、始めのうちは予備回っていたが、戦闘への参加強く要請し合流したフランスはその陣地からしてイギリス軍前進するにつれ、砲撃ひるませることが可能であり、逆茂木てきめんに流血の場と化した午後2時頃には、イギリス側一次攻撃は、明らかに失敗していた。モンカルム軍服の上着を脱いで、兵の間を回り、彼らに飛ばして、やるべきことをすべてやっている確認させた 。アバークロンビーは、フランシス・パークマントマス・マンテのような歴史家伝えるところでは、戦場からかなり離れた製材所ところにいた。側近の方のアバークロンビー伝えところによると、戦闘始まってしばらくの後、フランス陣形前に接近したとのことだが 戦闘が行われている時間大部分を、ラ・シュート川のそば、戦列最後尾近く過ごした最初の攻撃失敗したその後で、アバークロンビー次の攻撃こだわったのがなぜなのか、それは定かでない彼の弁護をさせてもらうと、アバークロンビークラーク判断頼りだった、クラークの言うことならたやすく受け入れられたのだ。しかし一次攻撃失敗により、これは誤っていたことが証明された。 2時近くになってイギリス軍はラ・シュート川に流していた大砲をはしけで運び計画とは逆に、ラ・シュート川の島と川岸の間の水路下ったこのため、彼らはフランス軍左翼と、砦の一部大砲との射程入ってしまった。砦の南西稜堡大砲から砲弾発射され、2隻のはしけが沈められ、他の船は大急ぎ引き返したアバークロンビー予備待機コネチカットニュージャージー植民地軍に、午後2時頃に戦闘参加するように命じたが、2時半までには、攻撃失敗明らかになった。そこでアバークロンビーは、部隊呼び戻したが、肝心な番号部隊、特にイギリス軍左翼の第42と第46連隊が、攻撃こだわっていた。午後5時頃、第42隊は自暴自棄になって前進しフランスの砦の基点までたどり着くことはできた。それから彼らは実際に胸堡をよじ登り始めた、しかしそこには銃剣持った兵が待ち構えていた。あるイギリス軍立会人はこう記している。「我が軍行動拙速過ぎた」またもう一人立会人によれば、兵たちは「のようになぎ倒された」 夜になるまで攻防続き多くの兵が、戦場背後作られた胸堡の陰に退却した。 ついに、アバークロンビーは、戦況大惨事の域に達したことを悟り各部隊に、兵を集めてジョージ湖の上陸地点に戻るよう命令した。暗いの中を退却する中で、兵たちは恐れおののき混乱した。しかも彼らの間で、フランス攻撃仕掛けて来るという噂が渦巻いていた。翌日明け方イギリス軍ジョージ湖を船で移動し日暮れ頃に南岸基地着いた一部兵士たちが、この退却屈辱的とらえているのが、誰の目にも明らかだった中佐アートマス・ウォードはこう書き残している、兵たちは「恥ずべき退却をした」。

※この「フランスの勝利」の解説は、「カリヨンの戦い」の解説の一部です。
「フランスの勝利」を含む「カリヨンの戦い」の記事については、「カリヨンの戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「フランスの勝利」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フランスの勝利」の関連用語

フランスの勝利のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランスの勝利のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのフレンチ・インディアン戦争 (改訂履歴)、カリヨンの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS