フランスの再侵略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)
1883年8月20日、フランス軍の遠征隊指揮官となったアメデ・クールベ提督の遠征軍がベトナムに上陸、阮朝軍に多大な損害を与えた。フランス軍の本格侵攻を前に、嗣徳帝の死で混乱していた阮朝は癸未条約(英語版)の締結を了承、事実上フランスに降伏した(トゥアンエンの戦い(英語版))。 勢いに乗るフランス軍はダイ川に展開する劉永福の黒旗軍に攻勢を仕掛け、フーホアイの戦い(英語版)とパランの戦い(英語版)で一定の損害を与えたが、激しい抵抗を受けた。二度の大攻勢でもダイ川から黒旗軍を後退させることができなかった。欧州諸国では「フランス軍苦戦」との悪評が広がり、焦ったフランス政府は1883年9月に攻勢失敗を理由に陸戦司令官を解任した。結局、黒旗軍はダイ川が氾濫したため、ソンタイ(山西)川付近の陣地へ後退した。 フランスは年末に黒旗軍を壊滅させるための大攻勢を計画しつつ、黒旗軍の後ろ盾である清国に対して単独講和を打診し始めた(一方で他の欧州主要国にも参戦を促して回った)。しかし清朝政府は駐仏公使の曾紀澤から「フランスは全面戦争に踏み切る勇気がない」との報告を受け、フランスの駐清公使と李鴻章が行っていた交渉を打ち切った。フランス政府はパリの曾紀澤公使とポール=アルマン・シャルメル=ラクール(英語版)外務大臣の会談を行わせたが、外交的進展はなかった。
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