フランスの劣勢
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「第三次イタリア戦争」の記事における「フランスの劣勢」の解説
ロートレックの敗北を見たイングランドは介入を決めた。1522年5月末、イングランドの大使はフランソワ1世に最後通牒をつきつけた。通牒には「スコットランド貴族の第2代オールバニ公爵ジョン・ステュアート(英語版)の支持」などフランスに対する数々の非難が記されていた。フランソワ1世は疑いを全て否認した。ヘンリー8世は続いて6月26日にカール5世とウィンザー条約(英語版)を締結、双方が少なくとも4万人の兵士を供出してフランスを攻撃することを確約した。カールはさらにイングランドがフランスに反旗を翻すことにより失われる年金の補償と昔の借金の返済に同意した。また同盟の証としてヘンリーの一人娘メアリーとの結婚に同意した。7月、イングランド軍はカレーから出撃してピカルディとブルターニュを攻撃、資金難で反撃に打って出ることのできないフランソワを尻目に略奪して回った。 フランソワは資金集めにさまざまな方法を試したが、ブルボン公シャルル3世との争いを一番効果的と狙った。シャルル3世はブルボン女公シュザンヌとの結婚によりブルボン公位を得たが、シュザンヌは1521年に死去した。シュザンヌの従姉でフランソワ1世の母であるルイーズ・ド・サヴォワは血統上の優位により相続権を主張した。フランソワはブルボン公領を得られれば財政立て直しが一気に進むので母の主張を支持、ブルボン公の所領を没収した。シャルルは憤激し、王を見限ってカール5世に接近した。 1523年、フランスにとっての戦況は最悪であった。ヴェネツィアのドージェですでに88歳と高齢だったアントニオ・グリマーニ(英語版)が死去、新たに選出されたアンドレア・グリッティはカンブレー同盟戦争を戦った経験から神聖ローマ帝国とフランスのどちらにも与しないことを決めた。彼は就任してすぐカール5世との講和にとりかかり、二か月後の7月29日にヴォルムス条約を締結してヴェネツィアを戦争から離脱させた。フランスではシャルル3世がカール5世と陰謀の計画を進め、反乱を起こす代わりに資金援助と援軍派遣を約束させた。しかし陰謀は10月に発覚し、フランソワ1世はシャルル3世をリヨンに召喚した。シャルルは病を称してブザンソンに逃亡した。激怒したフランソワはシャルルの同調者を全て処刑するよう命じたが、当のシャルルの捕縛には失敗し、シャルルはカール5世側につくと公的に宣言した。 カールは続いてスペインからピレネー山脈を越えてフランス南部を侵略した。ロートレックはバイヨンヌをかろうじて守ったが、カールは1524年2月にフエンテラビーアを再占領した。一方、サフォーク公爵率いるイングランドの大軍がフランドルと皇帝軍の進撃と同時にカレーから出撃、二正面作戦を強いられたフランスは抵抗できずイングランド軍のソンム川渡河を許し、パリから80キロのところまで軍を進められた。しかし、皇帝がイングランド軍の側面援護に留まったため、フランス首都攻撃というリスクを背負いたくなかったサフォーク公は10月30日に撤退、12月にはカレーまで戻った。 自国が攻められているのをよそに、フランソワはロンバルディアでの戦いに集中した。1523年10月、ギヨーム・ド・ボニヴェ(英語版)率いる1万8千人のフランス軍はピエモンテを通過してノヴァーラに到着、そこで同じぐらいの人数のスイス傭兵を招聘した。プロスペロ・コロンナ率いる教皇軍には9千人しかおらず、ミラノへ撤退した。しかし、ボニヴェは教皇軍を過大評価して冬営に入ってしまい、その間に教皇軍の指揮官たちは1万5千人のランツクネヒトを雇い、ブルボン公の増援も12月28日に駆けつけた。また冬営の間にプロスペロ・コロンナが死去、シャルル・ド・ラノワ(英語版)が代わりの指揮官になった。春がくるとフランスが雇ったスイス傭兵の中で脱走者が続出し、ボニヴェは撤退しはじめた。しかしセージア川で追い付かれ、やむなく戦ったセージアの戦い(英語版)で敗北を喫し、フランス軍前衛を率いていたピエール・テライユ(英語版)も戦死した。フランス軍は狼狽したが、ともかく最終的にはアルプスを越えて撤退した。またこの戦いで旧式軍隊に対する火縄銃の優位が再確認された。 1524年7月、ブルボン公とスペインのペスカーラ侯爵(英語版)は1万1千人の軍勢でアルプスを越えてプロヴァンスを侵略した。途中の村で抵抗を受けず進軍してきたブルボン公は8月9日、エクス=アン=プロヴァンスに入城してプロヴァンス伯を称し、支持の見返りとしてヘンリー8世への忠誠を誓った。ブルボン公とペスカーラ侯はプロヴァンスで唯一抵抗を続けたマルセイユを包囲(英語版)したが落とせず、フランソワが9月末に援軍とともにアヴィニョンに現れるとやむなくイタリアまで撤退した。
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