反乱を起こす
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:10 UTC 版)
前涼の宗族であり、第4代君主張駿の時代には寧戎校尉に任じられた。猜疑心が強く苛虐な性格であったという。 344年4月、後趙の将軍王擢を三交城において撃破した。 345年、張駿は興晋を始めとする8郡をもって河州を設置すると、張瓘は河州刺史に任じられ、枹罕に鎮した。以後10年に渡って河州を治め、その勢力は甚だ強大となった。 355年7月、第7代君主張祚は張瓘の存在を危険視し、枹罕の守備を張掖郡太守索孚に交代するよう命じ、張瓘には反乱を起こした胡人の討伐を命じた。さらに、側近の将軍易揣・張玲に歩騎万3千を与え、密かに張瓘の討伐を命じた。張掖出身の王鸞は張祚へ出兵を思い留まる様に固く諫めたが、張祚はこれに激怒して王鸞を処断し、三軍を出発させた。 この事が張瓘の耳に入ると、張祚の企みを知った。その為、赴任してきた索孚を殺害すると、張祚討伐の兵を挙げた。また、州郡に檄を飛ばして「張祚を廃し、涼寧侯耀霊(張祚に退位に追い込まれた第6代君主張耀霊の事)を復位させよう。」と触れ回った。この時、易揣・張玲の軍は河を渡り始めていたが、張瓘は頃合いを見計らって奇襲し、これを撃ち破った。易揣らは単騎で逃亡を図ったが、張瓘は追撃を仕掛けた。この事実が姑臧に届くと、城内は大混乱に陥った。 8月、驃騎将軍宋混は1万人余りの兵を纏め上げると、張瓘に呼応して姑臧へ進軍した。9月、宋混が姑臧に逼迫すると、張瓘の弟である張琚と子の張嵩が内側から呼応し、城門を開いて宋混軍を迎え入れた。 こうして、張祚は入殿してきた宋混らの軍に殺された。 その後、張瓘もまた姑臧に到着すると、張耀霊は既に張祚に殺害されていたので、第6代君主張重華の末子である張玄靚を君主に推戴して使持節・大都督・大将軍・涼王とした。また、自らは衛将軍として兵1万を領し、使持節・都督中外諸軍事・尚書令・涼州牧・張掖郡公・行大将軍事となり、張祚討伐に功績のあった宋混を尚書僕射として役人の任官・免官を委ねた。張玄靚はこの時まだ5歳であり、政務を行う能力は無かったので、事実上張瓘が君主となり、政権を掌握した。
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