君主に推戴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 08:52 UTC 版)
国の人は張天錫を主君に推戴し、太廟において拝謁した。嫡母(父の正妻)である厳氏を太王太后に立て、生母である劉氏を王后に立て、張玄靚を平陵に葬り、沖公と諡した。また、自ら使持節・大都督・大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公・涼王を号した。さらに、司馬綸騫に上表文を携えて東晋に派遣してその命を請うと共に、侍御史兪帰(張重華の時代に到来した東晋からの使者)を送り届けた。 即位した張天錫は東晋からは大将軍・大都督・隴右関中諸軍事・護羌校尉・涼州刺史・西平公、前秦の君主苻堅からは大将軍・涼州牧・西平公に、それぞれ任じられる二重の服属という状態となった。しかし即位後の張天錫は、音楽や酒・女に溺れて夜遅くまで遊び惚け、政治を省みる事が無かった。 365年1月、張天錫は元日にも関わらず、寵臣とだらしなく飲み騒ぎ、群臣からの朝賀を受けなかった。また、永訓宮に留まって朝廷にも顔を出す事がなかった。從事中郎張慮は棺を担いで決死を覚悟してその振る舞いを諫め、朝政を観るように請うたが、張天錫は従わなかった。少府長史紀瑞もまた上疏し、その時政について「臣が聞く所によりますと、東野はよく御してその駕を敗り、秦氏は富強となって国を覆しました。馬力は既に尽き、これを求めたならば休むことも出来ません。人は既に疲労して枯渇し、死人には労働は出来ません。造父(中国語版)(周の穆王に仕えた名御者)の御では馬は尽きる事無く、虞舜の治では、人が窮する事はありませんでした。故に造父は御を失せず、虞舜は人を失いませんでした」と諫めたが、張天錫は聞き入れなかった。 366年10月、張天錫は前秦へ使者を派遣し、国交の断絶を通達した。以前、前涼に背いて隴西に割拠していた李儼は前秦の傘下に入っていたが、張天錫の時代になると再び前涼とも通じるようになった。
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