頭角を現すとは? わかりやすく解説

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頭角(とうかく)を現(あらわ)・す

読み方:とうかくをあらわす

韓愈柳子厚墓誌銘」から》才能技量などが、周囲の人よりも一段とすぐれる。「めきめき—・してきた若手作家

[補説] 「頭角を出す」とは言わない

「頭角を現す」に似た言葉

頭角を現す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/06 19:05 UTC 版)

メアリー・オライリー」の記事における「頭角を現す」の解説

オライリー1904年38歳のときにクラスD一時雇い事務員として、アメリカ合衆国造幣局雇用された。他の新人大半よりも年長だった。まずワシントンD.C.造幣局本部働き、このとき支配人ジョージ・E・ロバーツが彼女の事業経験能力印象受けた当初一時雇いという待遇だったが、1905年には常雇い転換され同年にはクラスIの事務員昇進し給与も1,200ドルになった1911年、マーガレット・ケリーが造幣局検査官任命されたとき、その人事の余波オライリーにも及び、会計査定になった。このことで実質的に造幣局事務長ということになり、契約全て照査する責任持たされた。オライリー退職する前では最後造幣局支配人だったネリー・テイラー・ロスの伝記作者テバ・J・シア拠れば、「男性支配していた職場環境にある組織で、このようにオライリー昇り詰めていったことには、推進力知性というほとんど前例の無い組み合わせがあったに違いない」としていた。 1910年代オライリー昇進し続け金塊検査官と金計算官を務めたアメリカ合衆国議会証言するために呼び出されることも多かった1915年ロバート・W・ウーリー造幣局支配人指名されオライリーはが造幣局務めた3分の1世紀支配人になった中でもオライリーが馬の合った人物だった可能性がある。オライリー個人的に好意持ってメモを残すことが多く、それにウーリー応えたウーリー1916年8月辞任した後、翌月後任のフリードリヒ・ヨハネス・ヒューゴ・フォン・エンゲルケンが着任するまでの期間の一部で、オライリー支配人代行務めた。ただし、造幣局調整官のフレッド・H・シャフリンがその期間の大半支配人代行となっていた。

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頭角を現す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:35 UTC 版)

全琮」の記事における「頭角を現す」の解説

建安24年219年)、劉備軍関羽北上し曹操軍曹仁守備する樊城包囲すると(樊城の戦い)、全琮関羽討伐計略上疏した。この時、孫権が既に呂蒙関羽攻略計画立てていたため、事が漏れるのを恐れて上表無視したが、関羽攻略後、公安において開いた祝宴で、全琮孫権から「今日勝利はあなたの手柄でもある」と声をかけられた。陽華亭侯に封じられた。 夷陵の戦い直後に、孫権が兵を歴陽駐屯させると、曹休は5州の軍勢率いて歴陽侵攻した襲撃で呉の辺境軍を破ると、同時に別働隊横江を渡らせ、蕪湖軍営数千家を焼いた。これを見た全琮横江固守して臨時に敵と戦い魏軍撃ち返し敵味方とも死傷者多かった黄武元年222年)、曹丕曹休命じて張遼臧覇賈逵26余り指揮監督して洞口出撃させ、呂範指揮下で徐盛と共に防い、多く軍営近接して設けられた(洞口の戦い)。魏軍が軽船によって略奪しかけてくるため、全琮はつねに武装をして、警戒怠ることがなかった。そうするうちに、曹丕数千人に長江中央の中洲を渡るよう命じたが、全琮撃破された。その後徐盛と共に敵の臧覇追撃して尹礼首級数百敵兵を斬り、魏軍撃破したという戦果挙げた。この功績により綏南将軍となり、銭唐侯に封じられた。 銭唐において賊の彭式が略奪を働くと、周魴銭唐県の相に起用し鎮圧させた。 黄武4年225年)、仮節を与えられ九江太守任命された。 黄武5年226年)、丹陽会稽・呉の三郡の情勢不穏であったため、その対策のため孫権10県を分割して東安郡新設した。全琮はその東安郡太守任命された。全琮賞罰明確にし、山越降伏呼びかけて、1万余人山越帰順させた。役所富春置かれ、また太守任務解かれて戻る時、故郷の銭唐に立ち寄り先祖慰霊祭り膨大な財力により盛大に行なったという。 黄武7年228年)、孫権は魏の曹休計略により誘き出し、これを迎撃した。全琮陸遜統率の下で3の兵を率いて軍の右翼担い左翼朱桓)、石亭において曹休大い破った石亭の戦い)。

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頭角を現す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:56 UTC 版)

李雄 (成漢)」の記事における「頭角を現す」の解説

その後李雄叔父李流や兄の李蕩と共に兵を束ねて赤祖へ撤退した2つ陣営のうち、李流東営守り李雄李蕩が北営を守った李流が後を継いで大将軍自称した3月羅尚は督護常深を毗派遣し、さらに牙門左氾・黄訇・何沖を派遣して三道から北営を攻撃した。さらに涪陵の民である紳がこれに呼応し李流攻撃した李流の命により、李雄李蕩と共に紳を阻み、これを撃退した。何沖がその隙を付いて北営を攻撃すると、営内にいた氐族の苻成と隗伯が呼応した李雄李流と共に軍を転進させ北営に入って大勝した。苻成と隗伯は部衆を率いて羅尚の下に逃走した李蕩は馬を馳せて苻成らを追撃したが、倚矛により傷を負って戦死した李流李特李蕩立て続け戦死した上に、荊州刺史宗岱が孫阜と共に李流討伐掲げて到来してきたので、非常に恐れた太守李含李流降伏勧めると、李流はこれに従おうとした。李雄李驤と共に強く反対したが、李流はこれを認めなかった。 5月李流は子の世と李含の子胡を孫阜の軍に人質として派遣した胡の兄の李離は、父の李含降伏しようとしていると聞いて梓潼から馳せ戻り諫めようとしたが聞き入れられなかった。彼は、李雄と共に孫阜の軍を襲おう計画し李雄へ「もしもこの謀が成功したら、君を三年君主に推戴することを約束する」と語った李雄は「危機眼前迫っている。あなたの考え通りにすべきだ。だが、二老(李流李含)が従わないのをどうすべきだろうか」と問うた。李離は「今この事態止める為には、大事を決行するしかない。翁(李流)は君の叔父であるが、既に時勢得ていない。老父李特)の志は君にあるのだ。今さら彼らと議論することなどない」と諭すと、李雄大層喜び流民達へ向けて我らはかつて蜀の民へ乱暴狼藉働いたことがあり、彼らから恨まれているだろう。今、武器棄てて降ったとしても、魚肉化すだけだ。ここは心を一つにして孫阜を撃ち富貴手にするのみである」と宣言すると、彼らは皆李雄等に従った李雄は孫阜軍を攻撃するとこれに大勝し、宗岱も墊江死去した為、荊州軍撤退した李流は自らの判断間違っていたことを深く反省し李雄才覚認めるようになり、彼に軍事任せようになった6月李雄羅尚の軍を攻撃した。これを受けて羅尚大城に籠った為、李雄は江を渡って汶山郡太守陳図を攻撃して彼を討ち取ると、遂に郫城に入った7月李雄らは陣営移して郫城を拠点としたが、城内全てとなっていたので食糧得られず、士卒飢え苦しんだ。この時、涪陵范長生千家余り率いて青城山拠点築いていており、彼は軍糧供給させた為、軍は息を吹き返した。 李流事ある毎に李雄には長者の徳があると言って彼を重んじたまた、我が家興す者は、必ずこの人である」と述べ諸子命じて李雄奉じさせた。 9月李流は病が篤くなると、諸将向かって「驍騎(李雄)は高明仁愛であり、並外れた見識決断力持っている正に、大事をなすに足る才能がある。前軍李雄)の英武天から与えられたものである。軍を束ねて天命従い成都王に推戴するのだ」と遺し、子の世を差し置いて李雄後継者指名し間もなく死去した諸将遺言従い李雄立てて君主とした。李雄大都督大将軍益州牧を自称し、郫城を都に定めた

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頭角を現す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 22:53 UTC 版)

慕容恪」の記事における「頭角を現す」の解説

前燕初代君主慕容皝貴人高氏との間に生まれた高氏慕容皝から寵愛受けていなかった為、当初慕容恪自身も父より目掛けられていなかった。だが、15歳になるとその才覚認められるようになり、将来期待され孫子呉起兵法授かったまた、1軍の将として征伐にも従軍するようになり、やがて盪寇将軍任じられた。 338年5月後趙君主石虎数十万といわれる大軍前燕侵攻させ、本拠地城を包囲した後趙軍は四方から一斉に攻撃開始したが、慕輿根らの10日余りに渡る奮戦により攻略諦めて退却始めた慕容恪夜明けと共に胡人騎兵2千を諸門から一斉に出撃させると、撤退する後趙軍に奇襲をかけた。後趙諸軍大い驚き、みな甲を脱ぎ捨て遁走してしまった。慕容恪はこれに乗じて追撃掛け後趙軍を大敗させて3超える兵を討ち取る生け捕りにした。 同年12月密雲山に潜伏していた段部首領段遼同年1月段部後趙軍の侵攻により滅亡し段遼密雲山に逃走していた)が、後趙使者派遣して降伏申し入れると、石虎はこれを受け入れて征東将軍麻秋に3の兵を与えて段遼迎えに行かせた。だが、この降伏偽りであり、段遼密かに前燕にも降伏使者派遣していた。これを受け、慕容皝は自ら軍を率いて段遼迎え入れると、彼と密謀して麻秋率い後趙軍を奇襲する事を目論み、慕容恪に7千の精鋭与えて密雲山に派遣した慕容恪密雲山に到達する三蔵口に伏兵として潜伏し進軍してきた麻秋の軍に大打撃与えて兵卒6・7割方戦死させた。麻秋は馬を棄てて逃走したが、その司馬である陽裕生け捕りとした。 339年10月、弟の平狄将軍慕容覇(後の慕容垂)らと共に宇文別部宇文部傍系)へ攻め入り、これを破った

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頭角を現す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:07 UTC 版)

大久保一翁」の記事における「頭角を現す」の解説

文化14年1817年11月29日旗本大久保忠尚の子として生まれる。11代将軍・徳川家斉小姓勤め天保13年1842年)に家督相続する老中阿部正弘早くから見出され安政元年1854年)に目付海防掛任じられた。 その後意見書提出した勝海舟訪問してその能力見出し阿部正弘推挙して登用させるなどしている。安政3年1856年)には軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取などを歴任し駿府町奉行京都町奉行なども務めた

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