ハノーファー選帝侯
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「ジョージ1世 (イギリス王)」の記事における「ハノーファー選帝侯」の解説
エルンスト・アウグストは1698年1月23日に死去、遺領はオスナブリュック司教領(英語版)を除いてジョージが継承した。これにより、ジョージは神聖ローマ帝国におけるブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(首都の名をとりハノーファーとも)、選帝侯および旗手長になった。彼の宮廷は哲学者、数学者のゴットフリート・ライプニッツ、作曲家のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル、アゴスティーノ・ステッファーニなどでにぎわった。 ジョージが父の公国を継承した直後、イングランドとスコットランドの王位継承順位2位のグロスター公ウィリアム(英語版)が死去した。イングランドの1701年王位継承法により、ジョージの母ゾフィーは当時王位についていたウィリアム3世と義妹アンが継承者なく死去した場合、その継承者となることが定められていた。この決定の理由は、ゾフィーがプロテスタントのうちイギリス王家の最近親者にあたるためだった。近親者のうち継承順位がゾフィーより上にある56人のカトリック信者は排除された。彼らが王位を継承するために改宗するという望みは薄く、うち数人はすでに断っていた。 1701年8月、ジョージはガーター勲章を授与され、6週間後には元イングランド国王でカトリックとしては最近親だったジェームズ2世が死去した。翌年3月にウィリアム3世が死去、アンが即位した。ゾフィーは王位の推定相続人となった。彼女は当時71歳で、アン女王より35歳年上であったが健康体であり、彼女自身か息子による王位継承を保証するため精力的に働いた。しかし、イギリスの政治と憲法(英語版)の複雑さを理解していたのはジョージのほうであり、彼は1705年のゾフィー帰化法(英語版)でゾフィーとその継承者たちをイギリスに帰化させ、また権力の継承を摂政委員会を通じて行うことも定めた。同年、ジョージの伯父で唯一存命だったゲオルク・ヴィルヘルムが死去、ジョージはツェレを首都とするリューネブルク侯領とグルベンハーゲン侯領(英語版)を継承した。 ジョージがハノーファーを継承した直後、スペイン継承戦争が勃発した。戦争において問題となったのはフランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがスペイン王カルロス2世の遺言に従いスペイン王位を継承することだった。神聖ローマ帝国、ネーデルラント連邦共和国、イングランド、ハノーファー、そして多くのドイツ小国はフランスのブルボン家がスペインまでも支配すると、強力になりすぎることを恐れてフィリップによる継承に反対した。ジョージは戦争に乗じて親仏派のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領に侵攻、途中で戦列の並びを自ら書いた。侵攻は僅少な損害で成功、これによりイングランドとオランダはハノーファーが前に行ったザクセン=ラウエンブルク併合を承認した。 1706年、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルはフランス側についた廉で選帝侯位をはく奪され、同年にジョージは帝国元帥に叙され、ライン川沿岸の帝国軍を指揮した。しかしジョージは同盟者のマールバラ公爵ジョン・チャーチルに騙されて陽動攻撃を行い、また皇帝ヨーゼフ1世がジョージの戦役に必要な軍資金を横領したため大きな成功を収めることはなかった。しかしドイツ諸侯はジョージの働きぶりを認め、1708年にジョージを選帝侯として正式に承認した。ジョージは陽動攻撃がフランス軍の目をそらすための作戦であると後に知ったためマールバラ公には根を持たなかった。 1709年、ジョージは元帥職を辞め、以降軍務から身を引いた。1710年、元はプファルツ選帝侯が有した官職であった帝国の大出納官に就任した。バイエルン選帝侯が不在だったため官職が再編されたのだった。後にマールバラ公が政争で司令官の地位が危うくなるとマールバラ公への信任を表明した手紙をマールバラ公に送っている。またマールバラ公が失脚し、トーリー党が強引に和睦を図りイギリス軍を引き上げさせたことに反発、終戦までオイゲンの下で戦い抜いた。1711年にヨーゼフ1世が死去したことで勢力均衡が逆方向に崩される可能性が出て、1713年のユトレヒト条約締結と終戦につながった。フィリップはフェリペ5世としてスペイン王に即位したが、フランスの王位継承権は放棄、マクシミリアン2世エマヌエルはバイエルン選帝侯に復帰した。
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ハノーファー選帝侯
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「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領」の記事における「ハノーファー選帝侯」の解説
詳細は「ハノーファー家」を参照 カール4世の金印勅書の規定により選帝侯領は不可分と定められていた。すなわち、領土の拡張はできるが、領土を分割相続することは禁止されていた。これはブラウンシュヴァイク=リューネブルクで多くの公国が成立した結果をもたらした分割相続の伝統と相反するものであった。継承は男子長子相続制をとったが、当時ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家が採用したサリカ法に反するルールであったため、この変更は帝国の承認を必要とした。継承法の変更は1692年、皇帝レオポルト1世によって承認された。 神聖ローマ帝国は1806年に解散されたが、ゲオルク3世の政府は解散が最終決定であるとは考えず、1814年まで選帝侯とブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を称した。 ハノーファー選帝侯肖像画名前在位注 エルンスト・アウグスト 1692年 - 1698年 1692年、皇帝レオポルト1世に9番目の選帝侯に指名されるものの、帝国議会の承認を得る前に死去。 ゲオルク・ルートヴィヒ 1698年- 1727年 1708年に帝国議会から正式に選帝侯として認められる。1714年、グレートブリテン王およびアイルランド王に即位。1719年、ブレーメン=フェルデン(英語版)を獲得。 ゲオルク・アウグスト 1727年 - 1760年 1731年、ラント・ハーデルン(英語版)を獲得。 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ 1760年 - 1806年 1801年、連合王国の国王に即位。1803年、オスナブリュック司教領(英語版)を獲得。ナポレオン戦争での占領や併合によりハノーファーの統治権を1801年初に失い、4月に奪回、1803年5月に失い、1805年秋に奪回、1806年初に失い、1813年10月に奪回。1806年、神聖ローマ帝国の消滅により選帝侯位を失ったが、ゲオルク3世は消滅を認めず、ハノーファー王に即位する1814年まで選帝侯を称した。ハノーファー王位は1814年から1815年のウィーン会議で承認された。
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ハノーファー選帝侯 (1692年 - 1814年)
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(*生年 †没年) 肖像画 名前 統治期間と生没年 備考 エルンスト 1692年 - 1698年*1629年 †1698年 ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公ゲオルクの息子。1692年に選帝侯位を得て、初代ハノーファー(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク)選帝侯となる。 ゲオルク1世 1698年 - 1727年*1660年 †1727年 兼連合王国国王。エルンスト・アウグストの息子。 1714年に連合王国の君主に推戴されてハノーヴァー朝を開き、ハノーファーは同君連合体制となる。 ゲオルク2世 1727年 - 1760年*1683年 †1760年 兼連合王国国王。ゲオルク1世の息子。1760年に死去した時には王太子フリードリヒ・ルートヴィヒは父に先立って死去していた。そのため王太子の息子であるゲオルク3世が王位を継ぐ事になった。 ゲオルク3世 1760年 - 1806年*1738年 †1820年 兼連合王国国王。ゲオルク2世の孫。フランス帝国によるハノーファー占領と1806年の神聖ローマ帝国崩壊で選帝侯位を喪失。ウィーン会議の結果、1814年にハノーファー王国が創立され、その初代国王になる。晩年は息子達のスキャンダルに悩まされて精神に異常を来して統治能力を完全に失った。 1806年 - 1814年:この期間はハノーファーはフランス帝国の衛星国であるヴェストファーレン王国の支配下に置かれた。
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