ハノーヴァー朝での官職(1714年 – 1719年)
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「ジョゼフ・アディソン」の記事における「ハノーヴァー朝での官職(1714年 – 1719年)」の解説
1714年8月にアンが死去してから、ジョージ1世がイギリスに到着するまで政務をとった司法卿(Lords Justices)の秘書官を務めたため、次期国務大臣と噂されたが、実際には財務省秘書官(英語版)にも下級商務卿にも任命されず、9月にアイルランド主席政務官に任命された程度だった。さらにアイルランド総督の第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーが総督としてアイルランドに赴任しなかったため、アディソンは引き続きロンドンで議会に登院した。 サンダーランドのアイルランド総督退任に伴い、アディソンも1715年8月にアイルランド主席政務官を退任、12月に下級商務卿に任命された。1717年4月のホイッグ党分裂(英語版)ではサンダーランド伯爵がはじめ政争を有利に進めたため、アディソンはサンダーランドにより南部担当国務大臣に任命され、同4月16日にグレートブリテン枢密院の枢密顧問官に任命された。同時代の日記作家である初代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァル(このときは初代パーシヴァル男爵)によれば、サンダーランドがアディソンを国務大臣に任命したのは自身の命令を聞かない人を就任させないためであり、それが必要なくなった途端(1718年3月)政務ができないアディソンを解任した。一方、『英国人名事典』では健康の悪化も理由として挙げている。退任にあたり、1600ポンドの年金を与えられた。
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