ハノーヴァー朝の成立と議院内閣制の成立
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「イギリスの歴史」の記事における「ハノーヴァー朝の成立と議院内閣制の成立」の解説
王位継承法を制定したイギリス議会は、アン女王の後、ドイツからステュアート家の血を引くハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒを王位継承者として招いた。これがイギリス王ジョージ1世であり、現在のウィンザー朝に連なるハノーヴァー朝の始まりとなる。 ジョージ1世はあくまでもドイツの領邦国家のひとつであるハノーファー(ハノーヴァー)の君主であり、ドイツもしくは大陸ヨーロッパの政治には積極的に加担した反面、イギリスの政治に対してはあまり興味を持たなかった。ジョージ1世は即位時、既に50歳を過ぎていた上に、当時のヨーロッパにおける国際語はフランス語であったので、英語の理解には限界があった。次代のジョージ2世もプリンス・オブ・ウェールズ叙任時に30歳を過ぎており、既にハノーファーの軍事や政務を担っていたのでその政治姿勢には大差がなかった。加えてこの2代の王は、即位後もしばしばドイツに滞在し、イギリスを留守にすることが多かった。このため、イギリスの政治は王の手から離れ、議会勢力の大小に反映された内閣の手に委ねられることになった。 当時の第一大蔵卿であったホイッグ党のリーダー・ロバート・ウォルポールは、この2代の王の下で、事実上の首相として21年間政権の座にあり、庶民院の支持を失ったことを理由に辞任した。これを機に、内閣が議会に対して責任を持つ議院内閣制の基礎が築かれた。また、このウォルポールがイギリスにおける実質的な初代首相とされることになった。 ジョージ2世の孫で後継者であるジョージ3世が、ハノーヴァー朝で最初のイギリス生まれの王になった。ジョージ3世はしばしば議会への干渉を試み、この政治姿勢は程度の差はあるものの、息子のジョージ4世とウィリアム4世にも引き継がれた。ウィリアムは議会の意思に関係なく首相を任命した最後の王になった。
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