ハノーヴァー朝にて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/10 16:13 UTC 版)
「エイブラハム・スタンヤン」の記事における「ハノーヴァー朝にて」の解説
1714年8月にジョージ1世が即位した後、スタンヤンがホイッグ党に所属していることもあって下級海軍卿(Lord of Admiralty)に任命され、1717年4月まで務めた。ホイッグ党のキット=カット・クラブ(英語版)にも加入しており、同クラブ会員としての肖像画(英語版)が現存する。一方で野党派ホイッグ党に属するアレキサンダー・ポープなどの文人とも友好な関係を維持しており、ポープの『イーリアス』(Iliad)を購入している。 母ドロシー・ナップとメアリー・ナップ(初代コバム子爵リチャード・テンプルの母)が姉妹にあたるため、コバム子爵の支持を受け、1715年イギリス総選挙でバッキンガム選挙区(英語版)から出馬してトーリー党候補に勝利した。 1716年7月16日に在オーストリアイギリス特命全権公使(英語版)に任命され、同年12月初にウィーンに到着した。1717年10月に枢密院秘書官に任命されたため庶民院議員を辞任した。1717年11月に在オスマン帝国イギリス大使(英語版)としての辞令を受け、1718年3月にウィーンを離れて9月にコンスタンティノープルに到着した。以降1730年に帰国するまで在オスマン帝国イギリス大使を12年間務めたが、後任の第8代キノール伯爵ジョージ・ヘイから「実務家でないか、そのやり方を忘れた」「毎日ソファの上で女と過ごした」などと酷評された。 帰国した後、1731年1月から6月まで王璽尚書委員会の委員を務めた。1732年9月9日から11日までの間に生涯未婚のまま死去、遺言状で自身の所有するダイヤリングを友人のコバム子爵に譲った。また、大使館員にも少額の遺贈を与え、残りの分は弟テンプル・スタンヤンが継承した。
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