ハノーヴァー朝初期
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「チャールズ・タウンゼンド (第2代タウンゼンド子爵)」の記事における「ハノーヴァー朝初期」の解説
1714年にアン女王が崩御し、その又従兄のハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス王ジョージ1世に即位すると賛成の意を示し、トーリー党がジョージ1世に支持されずホイッグ党の弾劾で没落すると新たに成立したホイッグ党政権に北部担当国務大臣として加わった。 しかし1715年のジャコバイト反乱の鎮圧後に政府は外交方針をめぐって分裂し始めた。ジェームズ・スタンホープと第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーは大北方戦争でハノーファーを重視するジョージ1世の方針に従ってスウェーデンへの対抗、フランスとの連携を志向し、1715年10月にもスウェーデンに宣戦布告した。一方タウンゼンドやウォルポールはこれを「イギリスよりハノーヴァーの利益を優先させる政策」として反対した。 タウンゼンドとウォルポールはイギリスとフランスの条約締結(英仏同盟)の妨害に当たり、このため条約締結は1716年11月までずれ込んだ。ジョージ1世はこれに怒り、1716年12月にもタウンゼンドを北方担当国務大臣から罷免し、アイルランド総督に転任させ、さらに1717年4月にはアイルランド総督からも解任された(ウォルポールも一緒に辞職して下野した)。 しかし1720年に北方戦争が終結したことで外交政策上の対立は自然消滅し、タウンゼンドもウォルポールもスタンホープと和解して政権復帰することになり、タウンゼンドは枢密院議長に就任している。
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