首相の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 07:51 UTC 版)
イギリスにおいて「首相」(Prime Minister)という地位は、原理原則があって設立されたわけではなく、事実上の制度として形成され、20世紀になって制定法によって承認された官職であるため、その起源には不明確な面が多々存在する。 一般にイギリスにおける最初の首相と考えられているのは、ハノーヴァー朝初期の1721年から1742年にかけて第一大蔵卿(First Lord of the Treasury)を務めたロバート・ウォルポールである。当時ウォルポールは閣僚の中でも突出した存在になっており、国王(ジョージ1世とジョージ2世)が閣議を主宰しなくなっていたため、第一大蔵卿が閣議を主宰する慣例が彼の時代に確立したこと、また議会の支持を背景に政治を行う議院内閣制の基礎もこの政権下で築かれたと評価されているためである。事実ウォルポールの退任は国王の信任を失ったためではなく、1741年イギリス総選挙で僅差の多数派しか得られず、その後招集された議会で採決に敗れたためだった。当時よりウォルポールは俗称で「首相」(Prime Minister)と呼ばれたが、これは法的根拠なく他の閣僚を支配していることを批判する呼称であったのでウォルポール自身はそう呼ばれるのを嫌ったという。 ウォルポール退任後も第一大蔵卿の職位に就いた者が閣議を主宰することが多かったのでその者を指して「首相」と呼んだが、閣議主催者ではない場合には第一大蔵卿であっても「首相」とは呼ばれない。例えば1766年から1768年にかけて首相になったと考えられている初代チャタム伯爵ウィリアム・ピット(大ピット)は王璽尚書として内閣を率いている。この時第一大蔵卿だったのは第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイだが、組閣の大命を受けたのは大ピットであり、閣議を主宰したのも大ピットなのでこの内閣の首相は大ピットとされている。 大ピットの息子ウィリアム・ピット(小ピット)が1783年に第一大蔵卿になった時には「首相」という言葉は閣僚の中の「同輩中の首席」を指す言葉として定着していたといわれる。1803年の議会議事録(ハンザード)は冒頭の閣僚名簿で小ピットの後任ヘンリー・アディントン(後の初代シドマス子爵)について第一大蔵卿兼大蔵大臣と記載しているが、その後ろに括弧付きで「Prime Minister」と書いている。 第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルの3度の内閣においては第一大蔵卿の地位はそれぞれ初代イデスリー伯爵スタッフォード・ノースコート、ウィリアム・ヘンリー・スミス、アーサー・バルフォアが付いた。この例外的処置の影響で1905年には宮中序列に第一大蔵卿と別に首相の席次が設定された。この時に首相の地位が王室から公的に認められたことになる。とはいえ首相と第一大蔵卿が分離したのは第3次ソールズベリー侯爵内閣を最後に2016年現在まで無い。 首相が法律で定められたのは1937年のことで、この年までは「首相」という語は大臣法に無かった。ただし、外交文書ではこれよりも前に首相の語が使われている。また1968年11月1日の行政改革で、国家公務員(Her Majesty's Civil Service)の長として官僚達を指揮する国家公務員担当大臣(Minister for the Civil Service)が設けられると、首相がこれをも兼務する事となった。 現在のイギリス首相の正式な肩書きはグレートブリテン及び北アイルランド連合王国首相 兼 第一大蔵卿 兼 国家公務員担当大臣(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこくしゅしょう けん だいいちおおくらきょう けん こっかこうむいんたんとうだいじん、Prime Minister, First Lord of the Treasury and Minister for the Civil Service of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)である。なお、第二大蔵卿は財務大臣である。これを補佐する財務省首席政務官は閣議に参加する。この職掌は予算折衝で各省の主張と国策との総合的な調整を担っている。税制改正は財務大臣の専権事項であり、各省に相談すらしない。
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