しき‐しょう〔‐シヤウ〕【▽職掌】
読み方:しきしょう
しょく‐しょう〔‐シヤウ〕【職掌】
職掌
職掌とは、職務分類の際、最も大きな分類区分をさす。
仕事をするために要する労働内容が類似している職務または職種をグループ分けしたもの。
通常は職務の機能(人事、販売、営業など)、職務の態様(机上事務か現場作業か)などによって作業職掌、事務職掌、技術職掌、特務職掌、監督職掌、管理職掌、専門職掌などに区分される。
職掌に区分することによって職務の性質、機能が類似したものをまとめることが可能になり分析、評価、人事管理上都合がよい(マネジメントを行いやすい)。
また、昭和61年の男女雇用機会均等法施行を契機に、役割の違いに応じて総合職、一般職、といった職掌を設け、複線型雇用管理制度を採用する企業も多くなった。
しかし、男女雇用機会均等法の改正に伴い総合職と一般職というコース別人事は廃止される動きもある。
採用、配置、能力開発、昇進昇格、評価などについては、職掌の特性に応じて、コースごとに方法、内容を決定して管理し、節目ごとに能力、適性の見直しを行うこと、などに活用されている。
また、企業によっては、従業員のコース選択やコース転換の機会を設けるなど柔軟な対応を図るケースもある。
職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 06:08 UTC 版)
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関連項目
職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 02:53 UTC 版)
兵器の製造とともに、兵器製造のために必要な技術集団を支配することを主たる任務とする。技術集団には雑戸に属する鍛戸(かぬちへ)・甲作(よろいつくり)・靫作(ゆぎづくり)・弓削(ゆげ)・矢作(やはぎ)・鞆張(ともはり)・羽結(はゆい)・桙刊(ほこけずり)、品部に属する爪工(はたくみ)・楯縫(たてぬい)・幄作(あげはつくり)があった。雑戸は10月から翌年3月までに戸ごとに1丁、品部は必要に応じて臨時に徴発された。 天平14年(744年)の雑戸解放の影響で廃止されたが、天平宝字2年(758年)以前に官司としての造兵司は復置された。寛平8年(896年)に新設の兵庫寮に統合されて廃止された。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 23:28 UTC 版)
京職は京域に関わる行政・司法・警察を統括した制度。日本書紀に初めて見える。京職は地方における国司に相当する職掌を扱っているが、古代国家における京は国家を運営するために建設された人工的な都市空間としての性格を有しており、その京を運営・維持するための独自の職掌を有していた京職は国家にとっては欠くことが出来ない中央官司とされ、国司とはその性格を大きく異にしていた。これは、国司が外官(地方官)であるのに対し、京職は京官(中央官)扱いであることからも分かる。また、京職と国司では同じ職掌でも、内容が大きく異なる事例もある。代表的な例として戸籍に関する業務が挙げられる。考課令には国司・郡司の評価対象として戸口増益(人口増加)があり、隠首・括出された浮浪・逃亡を貫付(本貫として戸籍に登録)した成果も含まれていた。だが、京戸の貫付(京貫)は勅によって実施され、国司の職掌であった浮浪・逃亡・死亡による除帳(戸籍などから除く)の権限も京戸に関しては政府が行い、京職が行うことはなかった。もっとも、同族による申請を除けば、除帳はほとんど実施されず、更に度重なる遷都に同行せずに旧都に留まる民もいたために戸籍と実態の乖離が大きくなった。そのため、貞観18年(876年)になって京職に除帳の権限を認めることになった。 左右二職ありそれぞれ左京・右京を統治する。被官に市司(いちのつかさ)があり、それぞれ左京職が東市司を、右京職が西市司をそれぞれ管轄し市場に関する事務を取り扱った。唐名を「京兆(けいちょう)」という。 行政事務を補佐するために各条ごとに坊令、各坊ごとに坊長(町長)が置かれ、末端まで統治した。坊令・坊長はそれぞれ郡司・里長に相当するが、京には郡司級の在地の有力豪族が存在しなかったことから、坊令には坊内に居住する京戸でかつ八位・初位の位階を有した者から選ばれていた。坊長には坊内に居住する白丁から選ばれた。坊長は坊内の京戸の戸籍を管理するとともに、租税の徴収、雑徭・兵士の徴発、犯罪発生時の官司への通報と犯人の追捕、坊内の治安維持、坊内で発生した奴婢・家地の売買・裁判における証明・調査など、坊内における徴税的・警察的な業務を行っていた。坊令は令制では定員12人であるが、遷都ともに変化した。 ところが、平安京に遷都して以後、従来は京外に別に拠点を有していた貴族層の京への定着が進むとともに、坊令の命令に従わない貴族およびその従者が増加して問題化していった。その一方で、坊令そのものも京職の官人としての要素が強くなり、坊との関わりが希薄になった。このため、貞観4年(862年)に左京大夫紀今守の提言によって坊令に代わる地域の責任者として保長を設置し、貴族や官人をこれに任じることとなった。平安時代中期(10世紀中期)になると、保長の制度も機能しなくなり、地域社会に台頭した有力者を保刀禰に任ずることでかつての坊令・保長が担ってきた役割を果たさせようとした。だが、次第に治安権限を検非違使に奪われていくことになる。だが、その他の行政面では依然として京職は一定の役割を果たしており、14世紀頃までその活動がみられる。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/14 14:30 UTC 版)
内侍司の女官は天皇に近侍し、奏請と伝宣(内侍宣)、宮中の礼式等を司った。天皇の秘書役とも言うべき重要な役職で、学問・礼法に通じた有能な女性が多く任命されたようである。 三種の神器のひとつ・八咫鏡を模した神鏡が温明殿(内侍所)に安置されており、この神鏡を守護捧持するのも内侍司の女官の役目である。故に神鏡を「内侍所」とも呼ぶ。
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職掌
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「オレンブルク・ムスリム宗務局」の記事における「職掌」の解説
宗務局は、ロシア帝国内のムスリム社会に対して、以下のような権限を有していた。 イスラームの宗教者に対するイスラーム法の試験の実施 ムスリムの宗教活動の監督 モスクの建設、修繕 結婚、相続の裁定 ワクフの管理、紛争の調停 各街区における儀礼の実施、人籍簿の作成(1828年から)
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職掌
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都の東西に置かれていた市を監督する。市における不正及び犯罪の防止や交易における度量衡の管理、物価の監視などにあたる他、時に応じて公用に供する物資の調達にもあたったとされている。また、10日ごとに(「延喜式」では毎月1度)市における時価を上中下の3等に分けて(その中でも更に高値安値などの3段階表記をしたため、実質は9等)その時々の物価を調査した「估価帳」を作成して属する京職に対して提出した。估価帳の作成は時価を調査することで、官が買い上げる時に適正価格を判断するための資料に用いられたと考えられている。 長である市正(いちのかみ)は本来は正六位上相当の官であったが、五位の実務官僚や得業生や文章生のうち成功に応じた者が任命されることが多かった。つまり良くも悪くも財力や経済感覚に富んだ人物が起用されていた。また、市の治安を扱う事から検非違使の尉が兼務することもあった。 伴部として価格を検査する価長、市での犯罪者を取り締まる物部などが置かれた。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/03/30 15:03 UTC 版)
主鈴は中務省直属の官で駅鈴や印鑑の出納・給付を行った。少納言の実質的監督下に置かれ、儀式等において大変重要視された。平安時代には外記に職掌を奪われて衰退した。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/21 09:15 UTC 版)
『日本書紀』の持統天皇7年(693年)条に監物と共に初出しているため、飛鳥浄御原令期には存在したと考えられている。監物とともに中務省の倉庫の主鑰を管理していた。典鑰は毎朝参内して後宮十二司の闡司より鑰を受け取ってこれを保管し、必要に応じて監物に鑰を渡したり返納を受けたりして夕方にはまた闡司に返却した。 なお、典鑰は鑰の管理のみを担当し、典鑰から鑰を受け取った監物が鑰の開け閉めと出納の管理を行い、主鑰(大主鑰・少主鑰)が実際の出納を行うという役割分担が厳格にされていたとされている。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/12 00:32 UTC 版)
大宝律令以前は膳職という官司であったが、大宝律令制定時に、饗宴における食事の調理と配膳を担当する大膳職と分かれて、天皇の日常における食事の調理と配膳および食料の調達を担当する官司として設立された。このように「外」と「内」が対になっている機関は他に典薬寮と内薬司などもある。時代は下って、寛平八年(896年)には、同じ宮内省被官の園池司を吸収した。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/28 02:34 UTC 版)
内染司は天皇・皇后に供御する糸・布・織物類の染色をつかさどった。染色のための官奴婢が配属されていた。大同3年1月20日(808年)に行われた官司の統廃合により、中務省所属の縫殿寮に統合される(『日本後紀』の当該部分は一部失われているが、『官職秘抄』などに記されている)。延喜式には縫殿寮に内染司の機能を継承したとみられる「御服染作所(ごふくそめつくりどころ)」が設置され、染師の後身と見られる染手6名が配属されている。
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職掌
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土工司は木工寮の建築事業に対して土木事業、特に建築資材(石灰・瓦等)の生産を行っていた。そのために品部である泥部(ぬりべ)と雑戸である泥戸(ぬりこ)が付属しており生産にあたった。木工寮に併合されたとするが時期は不詳である。延喜式にはすでに土工司の職掌を木工寮が担っているためおそらくそれ以前のことと推測される。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/01 09:58 UTC 版)
大宝律令以前は膳職という官司であったが、大宝律令制定時に、天皇の食事を掌る内膳司と饗膳の食事を掌る大膳職に分割された。ただし、主食については大炊寮が掌っており、大膳職は副食・調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当した。『養老令』によれば、醢(肉や魚を塩辛状にしたもの)、醤・未醤(みそ)などの調味料、菓(くだもの)、雑餅(雑穀などの餅製品)などを供給し、管下の組織として菓・餅類を扱う「菓餅所」と醤・未醤を扱う「醤院」が設置された。『官職秘抄』や『職原鈔』、『百寮訓要抄』などによると、後世には長官である大夫は官位相当よりも高い四位から、逆に次官である亮は官位相当よりも低い六位から選ばれる例が多くなった事が記されている。また、大同3年7月26日(808年8月21日)の格によって少進・少属の定員が1名増加されている。
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職掌
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警察庁組織令(昭和29年6月30日政令第180号)第38条に所掌事務が規定されている。 (公安課)第38条 公安課においては、次の事務をつかさどる。一 警備情報の収集、整理その他警備情報に関すること(外事情報部の所掌に属するものを除く。)。二 次に掲げる犯罪その他警備犯罪の取締りに関すること(外事情報部の所掌に属するものを除く。)。 イ 刑法(明治40年法律第45号)第2編第2章及び第3章に規定する犯罪 ロ 破壊活動防止法(昭和27年法律第240号)に規定する犯罪 ハ 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法(昭和27年法律第138号)第6条及び第7条に規定する犯罪 ニ 日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法(昭和29年法律第166号)に規定する犯罪三 無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(平成11年法律第147号)の規定に基づく意見の陳述その他の活動に関すること。
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職掌
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「スポーツ・観光省 (ポーランド)」の記事における「職掌」の解説
一般・競技スポーツの振興。 国内の全スポーツ団体の監督。 体育・レクリエーション・リハビリテーション・青少年のスポーツ参加・身体障害者のためのスポーツの振興、スポーツに関する認定業務。 国外からのポーランド観光の振興・促進。
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職掌
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兵馬司は、全国の牧、軍馬、公私における牛・馬の管理(近い性格の機関である馬寮は、主に朝廷での飼養を職掌としていた)、駅伝制などをつかさどった。 大同3年(808年)に廃止され、その職務は左・右馬寮に組み込まれた。
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職掌
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古代のヤマト王権(大和朝廷)の造営事業は猪名部などの特定氏族が関わってきたと考えられているが、仏教伝来とともに寺院建築などの高度な技術が必要になると古くからの部民制では対応できなくなり、百済や中国大陸からの渡来系建築技術者が登用されるなどの変化が見られ流動的な要素を見せた。木工寮は天皇のために必要な建築土木や木器製作だけではなく、こうした事業に必要となる(伴部である工部の出身母体となる)木工の監督機関としての性格を有していたとみられている。 木工寮は宮廷の建築・土木・修理を一手にひきうけた。具体的には宮殿の建築・修理、京内の公共施設の修理、木器などの木製品の製作などである。また、こうした事業に必要な労働力と資財の調達、予算の立案なども木工寮の業務であった。 そのため非常に多忙であり多くの工員・力役者が付属した。それでも業務が繁雑で滞りをみせたため、弘仁9年(818年)には宮殿関係の業務を新設の修理職へ、同時期に京内の土木工事を新設の修理坊城使にそれぞれ移譲した。その後もたびたび業務の改廃を繰り返した。 なお、新たに京を造営する際は、京の造成を造京司が、宮殿の造営を造宮職(造宮省)が、寺院の建築は各造寺司と、令外官司がそれぞれ管轄しており、諸官庁の庁舎などは木工寮の指揮で建設された。このうち造宮省・造東大寺司は奈良時代を通じておかれていた。他の現業官司とちがい、工事の主任である伴部の工部は世襲ではなく能力に応じて登用され、また主に飛騨国から徴発される匠丁(飛騨工)が付属していた。大同3年(808年)に鍛冶司を併合し付属していた鍛冶戸を木工寮へ移管したが消滅した。
※この「職掌」の解説は、「木工寮」の解説の一部です。
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職掌
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主殿寮は内裏における消耗品の管理・供給を主な職掌とした。特に施設管理業務には人手がかかったため駆使丁や今良など大量の人員を擁した。掃部寮と職掌が重なる部分もある。808年(大同3年)には官奴司を併合して官奴婢・官戸の管理も行った。同様の官司として春宮坊の主殿署、後宮の殿司、斎宮寮の殿部司などがある。 後に長官は小槻氏が相続・世襲した。
※この「職掌」の解説は、「主殿寮」の解説の一部です。
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職掌
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「警察庁警備局国際テロリズム対策課」の記事における「職掌」の解説
警察庁組織令 第39条で以下のように規定されている。 国際テロリズム対策課においては、次の事務をつかさどる。 1 外国人又はその活動の本拠が外国に在る日本人によるテロリズム(広く恐怖又は不安を抱かせることによりその目的を達成することを意図して行われる政治上その他の主義主張に基づく暴力主義的破壊活動をいう。)に関する警備情報の収集、整理その他これらの活動に関する警備情報に関すること。
※この「職掌」の解説は、「警察庁警備局国際テロリズム対策課」の解説の一部です。
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職掌
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主鷹司は放鷹司とも書き、鷹や猟犬を飼育・調教し、鷹狩などの狩猟を取り仕切った。司の中では最も格が低く四等官は長官と主典しか置かれていない。鷹の実際の飼育は品部の鷹戸が行う。 「不殺生」といった仏教思想により、721年、および道鏡政権下の764年から769年までは廃止されて放生司(ほうじょうし)が置かれた。延暦年間には復活したが、人員削減政策の一環として861年からはここの官職は任命されなくなり、実質的に廃止された。鷹の飼育は蔵人所の鷹飼が継承した。
※この「職掌」の解説は、「主鷹司」の解説の一部です。
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職掌
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「十人委員会 (ヴェネツィア共和国)」の記事における「職掌」の解説
1468年の法令では、反乱・陰謀や国家の平和を乱すあらゆる行為などの他、ソドミーに関する裁判、スクオーラ・グランデ(英語版)や書記局に関する問題を取り扱うとされていた。だが、十人委員会は時代を経るにつれ徐々にその権限を拡大し、後には「秘密を守りつつ敏速に決定をくだす必要ありとされた問題」や「重大裁判を審議する」事もその職掌とされ、共和国の諜報・防諜活動を統括する情報機関としても機能した。また、16世紀頃には新たな建築や既存の建築物の用途変更なども監督した他、1508年12月29日以降は喜劇・悲劇・牧歌劇の上演許可業務も行っている。1692年6月10日には、共和国の歴史を印刷する際には委員会の許可が必要となった。更には、海上都市であるヴェネツィアにとってその存亡に直結する運河の管理を担当する水域専門官(savi alle acque)の任命権、本島の土壌が農耕に適さない為に要職とされる穀物専門官(savii sopara le ague)の任命権、国際通貨としてヨーロッパ各地やイスラム圏でも国際的な決算手段として用いられていたドゥカートを造幣する造幣局の統制権も獲得した。これらは元来元老院(イタリア語版)の権限であったものを十人委員会が闘争の末に勝ち取ったものであり、1530年には元老院に提出される書簡を事前検閲する権限までもが与えられ、十人委員会は事実上元老院に優越する意思決定機関となった。他にも、司法上の権限を四十人委員会(イタリア語版)から、市民層が就任する様々な官僚ポストの任命権を大評議会やシニョリーア(英語版)などから奪取し、十人委員会は共和国の政治構造のトップに位置する機関へと変貌していった。このように、十人委員会は事実上の最高意思決定機関でもあり、彼らの出した指示や命令は彼ら自身の決定以外によって覆されることはなかったとされる。そうした政策決定能力等から、十人委員会が現代の内閣にあたるものであったとする研究者もいる。
※この「職掌」の解説は、「十人委員会 (ヴェネツィア共和国)」の解説の一部です。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 06:06 UTC 版)
按察使の職掌は、『清史稿』職官志に以下の通り簡単に記されている。 按察使は風紀を振揚し、吏治を澄清するを掌る。至る所の囚徒を録し、辞状を勘し、大なる者は藩司と会して議し、以て部・院に聴す。闔省の駅伝を領するを兼ぬ。三年ごとの大比は監試官に充て、大計は考察官に充て、秋審は主稿官に充つ。 (按察使は風紀を導き、官吏の行いを清く正しくさせることを職掌とする。囚人を取り調べ、訴状を調査し、そのうち重大な案件については布政使と相談し、それを刑部や都察院に送る。さらに省内全ての駅伝を治めることを兼務する。三年ごとに催される郷試では監試官に当て、また大計では考察官に当て、秋審では主稿官に当てる。) このように、按察使の職掌は主として省内の治安・監察・裁判を司ることであるが、それ以外の一般的な政務にも携わる。以下にもう少し詳しく解説する。
※この「職掌」の解説は、「按察使 (中国)」の解説の一部です。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 01:02 UTC 版)
主水(もひとり)とは飲み水のことで、主水司(もひとりのつかさ)は水・氷の調達および粥の調理をつかさどった。やがてこれを扱う役人への敬称(殿=おとど)が接尾して転訛し「もんどのつかさ」とも呼ばれる。 調達のために伴部として水部(もいとりべ)品部として水戸(もいとりこ)が置かれた。また運搬等のために駆使丁が配属された。駆使丁は重労働の現業部門に置かれ、とくに氷は夏場は珍品として貴重だったため運搬に非常に苦労したとみられる。中世以降は明経道清原氏が長官職を世襲し付属の主水司領を相続した。
※この「職掌」の解説は、「主水司」の解説の一部です。
「職掌」を含む「主水司」の記事については、「主水司」の概要を参照ください。
職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 04:04 UTC 版)
散位寮は散位を名簿によって管理しその考課を行う。 散位(さんい/さんに)は散官ともいい位階のみで官職を持たないもののことをいう。京官・外官および文官・武官の別がある。散位の大半は退職者である。五位以上の散位は散位寮に長上(常勤)し、六位以下のうち、在京のものは散位寮に分番(交替勤務)し、他は国府に分番して、他の官司の手伝いや使者としての事務を行う。また武散位(武官の散位)は兵部省の管理をも受ける。 その他四度使(よどのつかい)の一つである朝集使が在京中のときはその管理を行う。のちに散位制度が形骸化すると存在意義が薄れ寛平8年(896年)式部省に併合され、以後散位の事務も式部省で行われた。
※この「職掌」の解説は、「散位寮」の解説の一部です。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:30 UTC 版)
内蔵寮より原料として支出される朝廷用の錦・綾・紬・羅などの織染を職掌とする。「職員令38」集解古記所引の別記によると、錦綾織110戸が所属していたという。大宝令における錦綾の織成は、織部司が行うものとされていたが、それを全国に拡大すべく、和銅4年(711年)閏6月14日に諸国に挑文師が派遣されて錦や綾の織り方を教習している。
※この「職掌」の解説は、「織部司」の解説の一部です。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/21 05:21 UTC 版)
内記は中務省直属の官で詔勅・宣命・位記の起草・天皇の行動記録を職掌としていた。そのため文筆の上手い官人や学者が優先的に就任し、大内記は紀伝道(文章道)の国家試験合格者に限定されていた。 ところが平安時代に入ると、内記の役割が徐々に衰退していくことになる。内記は天皇の公的な行動記録を残すことを職掌としており私的空間である内裏に立入ることは出来なかった。ところが、蔵人所が設置されて蔵人には内裏への立入が認められたために、天皇は蔵人を通じて太政官に命令(勅旨)を下すようになり、宮中行事などを除いて天皇が内裏の外に出る必要性がなくなったために、結果的には天皇と内記の接触が減少したことにより行動記録の職掌を失った。更に太政官の命令を起草する外記が勢力を拡大して詔勅起草の職掌を奪ったことが重なり、その役割を失っていったのである。 中務省直属の官として四等官からは独立しており(品官(ほんかん)・一司)、事務所は内記局と呼ばれる。内記局は左兵衛陣の南側にあったとされている。また、中国の起居注に倣って天皇の日々の動静についての記録をとって「内記日記」としてまとめられていたが、前述の理由により平安時代後期には行われなくなり、現在は一部の逸文以外は残されていない。
※この「職掌」の解説は、「内記」の解説の一部です。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 09:09 UTC 版)
内薬司は宮内省典薬寮と対になっている。内薬司は皇室の診察と薬の処方が主な職掌である。皇室の診察のために侍医と女医、薬の処方のために薬生が所属した。侍医は最高位の医官、女医は産科医で官戸や官婢からとられた。薬生は「生」と付くが、博士がいない。また薬園は典薬寮の薬園師が管理している他、不足分は各地から年料雑薬として納められたと考えられている。薬生自身も典薬寮の薬戸から採られたのではないかと考えられる。のちに女医の養成のために養老6年(722年)女医博士が置かれた。(それまでは典薬寮の医博士が指導していた)このように独立した官司といえどほとんど典薬寮の一部局のようになっており、寛平8年(896年)典薬寮に併合された。本司所属の侍医・女医博士・薬生は典薬寮に移管された。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 02:53 UTC 版)
典薬寮は宮廷官人への医療、医療関係者の養成および薬園等の管理を行った。天皇への医療を行う内薬司と対を成す。896年(寛平8年)に内薬司を併合して朝廷の医療を掌握した。長官は典薬頭で、医師、針師、按摩師、呪禁師で構成されていた。また、医博士、針博士、按摩博士、呪禁博士、薬園師がおり、その下には学生である医得業生が学んでいた。内薬司併合時には侍医・薬生・女医博士も移管された。 初期は呪術的色彩も強かったらしく、732年(天平4年)には修験道の開祖役小角の弟子である韓国広足が典薬頭に就任している。平安時代後期以降、和気氏と丹波氏による世襲となり、典薬頭は専ら丹波氏流の小森家が独占した。小森家は六位蔵人を兼ねたため、典薬頭であっても実際の天皇の拝診や寮の実務には携わらない名誉職的存在となった。また、典薬権助の地位は賀茂別雷神社の社家である藤木家が世襲したが、こちらは実際に鍼術を行い、天皇の拝診もする家系であった。 室町時代から戦国時代にかけて、医師たちが剃髪し僧侶に擬制して僧位を受ける例が続出すると、朝廷に出入りする医師も俗体としての官位を持たない者が占めてゆく。彼らは官位を持たないため、官としての典薬寮医師(御典医)ではなく、単に「御医」と呼ばれた。この傾向は江戸時代中期まで継続したが、光格天皇治世の頃から朝廷の中で復興ブームが高まる中で典薬寮も再興の対象となり、天保期以降、「御医」たちは次々と蓄髪して官位を受け「典医」になっていった。この時期は京都のみならず諸国の優秀な民間医が典医に登用されるケースが増え、伝統的な漢方医に加え、伊良子光顕などオランダ医学の流れを汲む者も任官されるようになった。 再興期の典薬寮は武家伝奏の支配を受け、実質的な典医たちの統率は典薬権助の藤木家や典薬大允に任じられた者が行った。また、典薬大允以下の役職は典医の中から技術の優劣や年功の長幼によって選ばれた。 1869年(明治2年)、明治維新に伴う官制改革によって廃止されたが、律令制に基づく機関の中では、最後の段階で設置当初の職掌を名実ともに取り戻していた稀有の存在であった。
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職掌
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「国防省 (ポーランド)」の記事における「職掌」の解説
平時においては、戦力・装備の維持管理を行う。 内閣からの国防に関する命令、指令を実行する。 政府機関、各自治体等からの国防に関する指令を実行する。 その他国防に関する事項を実行する。 NATO軍や他国との共同軍事演習への参加、ならびにPKO等の平和維持活動や人道支援へのポーランド軍の派遣。
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職掌
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『日本後紀』によると、大宝以降、吹人・角吹と注記し、番上・吹部と称してきたものだったのが、延暦15年(796年)10月に正式名称が「吹部」に統一され、定員が34名とされた、という。同時に雅楽寮のさまざまな生にならい、勘籍(採用にあたり戸籍に基づいて身元調査を行う)扱いにされた。『令集解』「職員令」伴説所引の和銅2年(709年)の右大弁官宣によると、吹部たちは10月から2月までの5ヶ月間、鼓角の教習を行い、3月1日にその技能を試験する、となっている。 『延喜式』兵庫寮によると、鼓吹部は品部である鼓吹戸から採用することになっている。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 23:23 UTC 版)
律令制下の軍を指揮するための、鼓吹による信号体系の「陣法」を教習したもので、鼓吹戸が所属し、鼓吹師・鼓吹生も所属していたことが、『令集解』「古記」に記されている。軍団でも同じ陣法に基づいて兵士を訓練することになっており、毎月3月1日に「鼓吹司試生儀」を行うことになっていた。 「吹」は大角・小角を指し、軍旅を整えるのに吹角を本とし、征戦には鉦鼓を先とし、喪葬令によると、親王・三位の貴族・大納言以上の葬送には鉦鼓を用いるとなっている。 正・佑・大令史・少令史各一名の四等官、および使部10人、直丁と鼓吹戸から構成されており、鼓吹戸は調を免除されている。延暦15年(796年)に伴部として吹部34人を設け、同19年に大笛長上を廃して、鉦鼓長上を置き、官位は吹角長上と同じにしたとなっている。大同3年(808年)、治部省喪儀司を併せ、翌年史生を2名新しく設置したが、寛平8年(896年)、左右兵庫・造兵の2司とともに兵庫寮となった。
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職掌
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宮中で行われる仏事、神事の供物、宴会での宴席の準備、管理を分掌する。また、御料地の管理も行った。平安時代以降、頭は中原氏が世襲した。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 22:46 UTC 版)
園池司は離宮・庭園の管理と供御としての野菜の生産を行っていた。「園地」は令の一編である田令に記載された土地の一形態で野菜・果物をつくっていたと考えられる。その実態は不明であるが、園池司はこのような園地の管理も行ったらしい。また珍獣の飼育も職掌の一つであったらしい。似たような官司に花苑司(かえんし)があるがこれは短期間設置されただけあり、また名称などから考えるに庭園管理に特化したものではないかと考えられる。寛平八年(896年)内膳司に併合された。この頃には専ら野菜の栽培をしていたのだろう。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:55 UTC 版)
監物は中務省直属の官で諸官庁の倉庫の鍵を管理・出納事務の監察に携わった。そのため鍵を実際に取り扱う中務省の典鑰や大蔵省・内蔵寮の主鑰を実質的に統率した。もともとは天皇直属の「下物職」であったらしく律令施行によって中務省に組み込まれた。下物職の名称は監物の別名として使われることがある。大・中・少の三員あったが中監物は廃止され替わりに監物主典(けんもつさかん)が設置されて事務を補助した。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/27 02:51 UTC 版)
度縁や戒牒の発行といった僧尼の名籍の管理、宮中での仏事法会の監督、外国使節の送迎・接待、在京俘囚の饗応、鴻臚館の管理を職掌とした。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 04:38 UTC 版)
「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 15:52 UTC 版)
「外務省 (ポーランド)」の記事における「職掌」の解説
各国や国際機関との良好な関係の維持。 ポーランド国家とポーランド国民の利益の代表・保護。 各国のポロニアとの協力。 ポーランド国家とポーランド語の広報宣伝。 外交官、外交代表団、在外公館の活動の管理・サポート。 外交に関する行政の執行。 欧州委員会のサポート。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:04 UTC 版)
刑事法院の職務は、大きく分けて次の4種類である。 正式起訴に基づくトライアル 治安判事裁判所から量刑のため送致された被告人に対する刑の宣告 治安判事裁判所からの上訴 その他、民事雑事件(少年裁判所の保護命令に対する上訴等)
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 05:23 UTC 版)
大舎人寮は大舎人を名簿によって管理することが職掌であった。大舎人は内舎人(うどねり)と対になっており、天皇に供奉して宿直(とのい)や様々な雑用をこなした。そのため、繁雑な官司に出向することも多かった。官吏の養成段階としてよく機能していた。平安時代にはときどき大舎人のうち何人かが内豎になったり、またその逆もあった。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 04:43 UTC 版)
外事・戸籍(姓名関係)・儀礼全般を管轄し姓氏に関する訴訟や、結婚、戸籍関係の管理および訴訟、僧尼、仏事に対する監督、雅楽の監督、山陵の監督、および外国からの使節の接待などを職掌としていた。姓氏の訴訟に関しては解部が設置されて専任した。 しかし平安時代以降は姓氏に関する事項を扱うことは少なくなり、894年(寛平6年)に菅原道真の建白による遣唐使廃止以降、中国などとの正式な国交がなくなったことにより、外国からの使節の接待もしなくなる。更には、戸籍制度の解体とともに戸籍関係の職務も遂行不可能になり、もっぱら僧尼、仏事、雅楽及び山陵の監督を職務とすることとなった。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 22:36 UTC 版)
その職掌は各省とその傘下の役職の監督が主であり、庶事の受け付け、官内の糾(糺)弾と決裁、起案文への署名、公務の遅滞や過失の判断、諸官庁の宿直と諸国司の朝集の裁定をつかさどった(大宝令職員令)。律令の規定では、八省のうち中務省・式部省・治部省・民部省を左弁官局が、兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省を右弁官局が受け持つこととされていたが、実際には弁官局総体で八省を管轄したようである。また、『集解令釈』(『令集解』の「令釈」)職員令太政官条には神祇官と春宮坊のことも左弁官が扱ったと記されている。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 05:01 UTC 版)
図書寮の第一の職掌は国家の蔵書を管理することで現在でいう国立図書館の役割を担っていた。またそれに付属して儒教・仏教の経典、仏像なども管理していた。管理事務を補助するため書物を書き写す写書手や書物の装丁を行う装潢手が属していた。さらに撰史事業も職掌の一つと『養老令』にあげられている。実際の撰史事業はその都度機構(撰国史所)を設けて事務を行っていた(また、撰史に必要な公文書・記録類が集められたのが内記や外記であったということも図書寮が撰史事業に関わらなかった理由として挙げられる)。また図書の管理も平安時代には御書所・内御書所・一本御書所などの機関に実権を奪われ形骸化した。図書寮の第二の職掌は紙・墨・筆などの製造を行うことである。のちの図書寮の業務はこれが中心になった。 江戸時代には、天保12年(1841年)8月に、江戸幕府の正史『御実紀』(通称『徳川実紀』)の編集主幹である奥儒者成島司直が図書頭に任じられている。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 02:20 UTC 版)
警察法(昭和29年法律第162号)第21条に所掌事務が規定されている。 (長官官房の所掌事務)第二十一条 長官官房においては、警察庁の所掌事務に関し、次に掲げる事務をつかさどる。 一 機密に関すること。 二 長官の官印及び庁印の管守に関すること。 三 公文書類の接受、発送、編集及び保存に関すること。 四 所管行政に関する企画、立案及び総合調整に関すること。 五 所管行政に関する政策の評価に関すること。 六 法令案の審査に関すること。 七 広報に関すること。 八 情報の公開に関すること。 九 個人情報の保護に関すること。 十 警察職員の人事及び定員に関すること。 十一 監察に関すること。 十二 予算、決算及び会計に関すること。 十三 国有財産及び物品の管理及び処分に関すること。 十四 会計の監査に関すること。 十五 警察教養に関すること。 十六 警察職員の福利厚生に関すること。 十七 警察官の職務に協力援助した者の災害給付に関すること。 十八 犯罪被害者等給付金に関すること。 十九 警察装備に関すること。 二十 所管行政に係る国際協力に関する事務の総括に関すること。 二十一 前各号に掲げるもののほか、他の局又は機関の所掌に属しない事務に関すること。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/21 01:38 UTC 版)
画工司は宮中の絵画制作や彩色を担当していた。そのため画工司には才伎長上の画師(えし)と伴部の画部(えかきべ)が所属している。のちに官営工房の再編で内匠寮として再編された。平安時代には画所がその業務を継承した。
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職掌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/26 02:51 UTC 版)
囚獄司は京内二つの獄舎を管理し、刑の執行、囚人の監督なども担当していた。囚獄司は京官で唯一、雑役を行う直丁が属さずかわりに物部丁(もののべちょう)が属した。内容はあまり変わらないにもかかわらず区別されたのは、獄舎を穢れた場所と考えられたためらしい。伴部の物部は物部丁を統率して獄舎を守衛することが職責である。平安時代には検非違使に大部分の職務を奪われ有名無実化した。また後にはその名を嫌って長官職になることが敬遠されたと『職原抄』にある。 獄舎の位置 左獄 右獄
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