明治前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:21 UTC 版)
1869年(明治2年)山田方谷から派遣された松山藩士により箱館から東京へ連れ戻された板倉勝静は、降伏を決断する。これにより、備中松山藩は減封となる。 また、同名の伊予松山藩が早い段階で恭順したため、新政府は敵対した側の備中松山藩に藩名の変更を要請。高梁川の名から取った高梁藩に改名したことが、現在の高梁市の由来となっている。 現市域の高梁川以東の大部分は賀陽郡、以西の大部分は下道郡(時期によっては小田郡・後月郡も混在)であった。のちに東部は上房郡、西部は川上郡として分立した。 1871年(明治4年)8月29日 - 廃藩置県により高梁県・成羽県となる。 11月15日 - 備中・備後の11県が統合して深津県(小田県)が設置される。 1875年(明治8年)12月10日 - 小田県が岡山県に統合される。 1876年(明治9年)6月 - 第4警察出張所(現在の高梁警察署)を設置。 1878年(明治11年)12月9日 - 第八十六国立銀行(現在の中国銀行)設立。 1881年(明治14年)12月 - 福西志計子が向町に私立の裁縫所を設立する。 1882年(明治15年)4月 - 高梁基督教会堂設立。 1885年(明治18年)1月 - 福西志計子の縫製所が順正女学校として改組される。高梁市において初の女子中等教育施設の設立。(前述の縫製所から起算した場合は、岡山県において初の女子中等教育施設とみなされる。現在の岡山県立高梁高等学校家政科。)
※この「明治前期」の解説は、「高梁市」の解説の一部です。
「明治前期」を含む「高梁市」の記事については、「高梁市」の概要を参照ください。
明治前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:19 UTC 版)
江戸幕府が倒れ、時局に関する表現がある程度自由になった明治時代初期、『ジャパン・パンチ』を参考に、日本語による絵入り新聞が続々と創刊される。1874年に河鍋暁斎と仮名垣魯文が雑誌『絵新聞日本地』を創刊したのを皮切りに、1875年には梅亭金鵞(橋爪錦造)が『寄笑新聞』を、1877年には野村文夫が『團團珍聞(まるまるちんぶん)』を創刊した。とりわけ『團團珍聞』では、自由民権運動を背景とした反政府的な民意を背景に、痛烈な政治風刺のポンチ絵が描かれ、たびたび発行停止処分が下された。 『絵新聞日本地』創刊と同年、落合芳幾が『東京日日新聞』の創刊に参画。『東京日日新聞』は豪華な色刷りのイラストレーションによる「錦絵新聞」として目を引き、以来「錦絵新聞」の形式および、そこで描かれた時事イラスト(新聞錦絵)が盛んとなる。 『團團珍聞』の専属となった本多錦吉郎は、洋画の技法を学んだ最初のポンチ絵師で、つけペンによるポンチ執筆を行った最初の日本人と考えられている。なお、執筆の道具としてペンが主流になるのは昭和になってからで、多くは、洋画出身の絵師であっても毛筆で描いた。 1883年、陸軍士官学校の記録法教師としてジョルジュ・ビゴーが来日する。ビゴーは『團團珍聞』や錦絵新聞の『郵便報知新聞』への寄稿のほか、個人誌『トバエ』において、激しい政府批判や、叙情的な世相描写を行った。『トバエ』は日本語のキャプションが添えられていたため、多くの日本人ポンチ絵師の目に触れ、大きな影響を与えることになる。 この間、印刷技術の近代化にともない、ポンチ絵や錦絵の掲載媒体は、浮世絵や瓦版以来の1枚刷りから、新聞・雑誌へと移行していく。
※この「明治前期」の解説は、「日本の漫画の歴史」の解説の一部です。
「明治前期」を含む「日本の漫画の歴史」の記事については、「日本の漫画の歴史」の概要を参照ください。
- 明治前期のページへのリンク