岡山県立高梁高等学校とは? わかりやすく解説

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岡山県立高梁高等学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/20 04:26 UTC 版)

岡山県立高梁高等学校
北緯34度48分4.1秒 東経133度37分8.1秒 / 北緯34.801139度 東経133.618917度 / 34.801139; 133.618917座標: 北緯34度48分4.1秒 東経133度37分8.1秒 / 北緯34.801139度 東経133.618917度 / 34.801139; 133.618917
過去の名称 (旧制中学校)
岡山県高梁尋常中学校
岡山県高梁中学校
岡山県立高梁中学校
(高等女学校)
私立向町縫製所
私立順正女学校
岡山県順正高等女学校
岡山県高梁高等女学校
(新制高等学校)
岡山県立高梁第一高等学校
岡山県立高梁第二高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者  岡山県
学区 (普通科)備北学区
(家政科)全県学区
併合学校 順正高等女学校
岡山県高梁高等女学校
岡山県立吉備北陵高等学校
設立年月日 1881年
創立者 福西志計子
(私立向町縫製所)
岡山県
(県立高梁尋常中学校)
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 単位制
設置学科 普通科
家政科
学期 2学期制
学校コード D133210000267
高校コード 33133D
所在地 716-0004
岡山県高梁市内山下38番地
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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岡山県立高梁高等学校(おかやまけんりつ たかはしこうとうがっこう)は、岡山県高梁市内山下にある県立の全日制高等学校。岡山県下においても明治時代では、岡山(現・朝日高校)、津山、高梁、矢掛の4校しか県立中学(現在の高校に相当)がなく、朝日高校に次ぐ2番目に古い歴史がある[1][2][3]。幅広い分野に多数の人材を輩出している[4]愛称は「たかこう」[要出典]

特色

高梁市においては最も歴史のある中等教育機関とされている。特に、中途併合となった順正女学校(現・家政科)は、岡山県下において初めて設立された女学校であるため[5]、本学の家政科は県内において最も歴史の古い中等教育機関としての家政科と言える[5]

また、旧制中学時代には、学校寮が有名であった[6]。6つの寮があり、それぞれ、大成・明倫・日新・温知・造士・弘道と命名されていた[6]。これらの学校寮は当時としては珍しく、学校内だけでは無く市内に散在していた[7]。加えて、戦前はソフトテニスの全国大会で優勝するなど強豪で知られていた[8][2]

同校が立地する場所は備中松山城の出張所として平時に藩主が滞在した尾根小屋の跡地である[9]。そのため当校は同城が建つ臥牛山の中腹に立つ、山丘と城壁に囲まれた立地であり[9]、中庭には光風館と呼ばれる茶室と、江戸時代の大名であり庭師である小堀政一(遠州)が手懸けた心字池を囲む庭がある[10]

学科

教育方針

  • 明朗で秩序ある学園の創造
  • 聡明で品位ある人格の形成
  • 健康で実践力のある社会人の育成

沿革

順正短大に移譲された順正女学校跡地(順正学園 敷地内)

岡山県立高梁高等学校

  • 1949年(昭和24年)8月 - 下記の二校を岡山県立高梁高等学校に統合
普通科(内山下本校)と家政科(伊賀町分校)を設置[11]
  • 1967年(昭和42年)4月 - 伊賀町分校の家政科を内山下本校に統合させ、伊賀町分校を正式に廃する[12]
前年、伊賀町分校の設備所有権を新設校である順正短期大学に移譲(下記)[12]
  • 1972年(昭和47年)3月 - 温知寮(男子寮)・天体観測ドーム新築
  • 1973年(昭和48年)3月 - 泉寮(女子寮)・創立記念会館新築
  • 1980年(昭和55年)3月 - 光風館再建
  • 2003年(平成15年)4月 - 二学期制導入
  • 2004年(平成16年)4月 - 単位制導入
  • 2006年(平成18年)4月 - 吉備北陵高校(在校生卒業までの2008年(平成20年)3月まで存続)と再編合併し新・高梁高校になる

順正高等女学校

  • 1881年(明治14年)12月 - 福西志計子が高梁町大字向町に縫製所を創立する[13]
  • 1885年(明治18年)1月 - 縫製所に文学科を加え順正女学校として改組する[14]
  • 1895年(明治28年)7月 - 高梁市大字頼久寺町に新築移転[13]
  • 1908年(明治41年)4月 - 高梁市大字伊賀町に事務本拠を移転[13]。私立順正高等女学校に改称[15]
  • 1921年(大正10年)4月 - 県営移管、岡山県順正高等女学校に改称[16]
  • 1943年(昭和18年)4月 - 岡山県高梁高等女学校に改称[17]
  • 1948年(昭和23年)4月 - 岡山県立高梁第二高等学校に改称[18]
  • (1949年(昭和24年)- 岡山県が県立高校の再編を開始。高梁第一高校との統合及び伊賀町校舎の廃止を打診される)
  • 昭和30年代 - 伊賀町校舎の廃止を巡り、本学卒業生および高梁市民を中心に「廃止反対もしくは短大・大学の設置」を求める運動が起こされる)
  • 1966年(昭和41年)9月 - 高梁高等学校、旧校舎跡を新設される学校に譲授。高梁市および大学設置運動団体、新設校に「順正」の名を遺すように働きかけ、受け入れられる)
  • (1967年(昭和42年)4月 - 旧・伊賀町校舎の地に、新設校・順正短期大学が開学される。以降は同校の項目を参照)

高梁中学校

  • 1895年(明治28年)8月 - 岡山県高梁尋常中学校を高梁町大字向町に設立[2]
  • 1899年(明治32年)4月 - 岡山県高梁中学校に改称[2]
  • 1900年(明治33年)10月 - 高梁市大字内山下の現在地に校舎新築移転[2]
  • 1901年(明治34年)5月 - 岡山県立高梁中学校に改称[2]
  • 1948年(昭和23年)4月 - 岡山県立高梁第一高等学校に改称[19]

高梁高校旧校舎

経緯

岡山県立高梁高校旧校舎

1900年(明治33年)8月落成[2]1968年(昭和43年)移築保存途中で行方不明。

県内で最も古い学校建築の一つであり、1900年(明治33年)旧制高梁中学校、旧制津山中学校旧制第六高等学校と同時期に建設される。下見板張の木造2階建てであり、寄棟造となっていた。和風の桟瓦を葺いたこの時代に典型的な学校建築となっており、地方都市の中等学校校舎としては規模が大きく、風格を備えた建物となっていた。当時、兄弟校と呼ばれた旧制津山中と同じ建築物であった。

建築は高梁中の方が早く、旧校舎の建物は、数少ない現存する旧制中学校の貴重な文化遺産であったため、1968年(昭和43年)の校舎立替え時に岡山県英田郡美作町(現:美作市)へ移築保存されることとなった。そのため一度解体されたが、そのまま移築されること無く建材は行方不明(途中で廃棄処分された可能性が高い)となった。

現在は津山高校にのみ現存[3]。1995年(平成7年)に国指定重要文化財となる。津山高校の現存校舎は、当時の学校建築の趣をよく残すことから、NHK連続テレビ小説あぐり」で、第一岡山高等女学校のシーンの撮影に使用された。NHKの連続テレビ小説「カーネーション」では、小原糸子が通う泉州高等女学校のシーンの撮影に使用されている。全国でも有数の貴重な学校遺産となっている。

アクセス

著名な関係者

政治家・軍人

軍人

政治家

学者

学長・総長経験者

名誉教授

名誉博士

教授・研究者

プログラマー

実業家・銀行家

代表取締役経験者

取締役・その他経験者

芸能・文化人

スポーツ

官僚・弁護士

活動家

順正高等女学校出身者

ゆかりの人物

姉妹校協定

関連項目

外部リンク

脚注

  1. ^ 私の履歴書 元明治大学学長 小出廉二”. J-stage. 2024年11月17日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 興亜日本建国史 : 皇朝歴代詔勅大成 中国大観 221頁, 日本同盟通信社 編, 昭和15年『同年八月二十八日高梁町大字向町安正寺を仮校舎として開設。(中略)三十三年高梁町字内山下に新校舎落成之に移轉。』
  3. ^ a b 日本人脈新地図 西日本編, サンデー毎日編集部 編, 泰流社, 1974年『津山中は、明治二十八年九月、県立津山尋常中学として誕生した。(中略)本館の建物は当時の姿のまま残っている。(中略)岡山中(後に一中、二中に分かれる)、高梁中(高梁高。創立明治二十八年)とともに歴史と伝統を誇る。』
  4. ^ 汎岡山 第12巻第3号-第14巻第7号, 『中心地帯の文化は、この高梁中學が成し遂げたとも見られやう。だから、その人材の輩出も、岡山一中に追從して、大量的産出だ。』
  5. ^ a b カトリック教育研究 (4), 日本カトリック教育学会 編, 1987年7月『岡山県で最初の女学校は、二人の日本人プロテスタント女性が高梁に明治14年設立した順正女学校(現在、県立高梁高校)である。』
  6. ^ a b 寄宿舎と青年の教育 第三章「我国の学生寄宿舎」p.125, 滝浦文弥 著, 単純生活社 大正15年
  7. ^ 寄宿舎と青年の教育 第十章「建築及設備」p.300, 滝浦文弥 著, 単純生活社 大正15年
  8. ^ 運動年鑑 大正12年度 , 朝日新聞社 編, 大正12年 『第15回全国庭球大会(軟)』優勝 高梁中学
  9. ^ a b 新体育 49(3) , 新体育社, 1979年3月『備中松山城は山城だから,城主の館と藩政の事務所ともいうべき邸が山麓に置かれた。この敷地が現在の岡山県立高梁高校の校地である。』
  10. ^ 高梁市史, 高梁市史編纂委員会 編 高梁市, 1979.12
  11. ^ 綱島梁川の生涯と思想, 虫明竌, 行安茂 編 早稲田大学出版部, 1981.4『同二四年八月三一日、岡山県立高梁第一高等学校(旧高梁中学校)と統合され、岡山県立高梁高等学校となる。これと共に順正高等女学校は伊賀町校舎とよばれ、家政科の生徒が学び、旧高梁中学校は内山下校舎とよばれ、普通科の生徒が学んだ。』
  12. ^ a b 綱島梁川の生涯と思想, 虫明竌, 行安茂 編 早稲田大学出版部, 1981.4『昭和四二年三月内山下校舎の方・家政科は移され、伊賀町校舎は廃舎となり、敷地は県から高梁市へ売り渡された。その後、この敷地へ順正短期大学が昭和四二年一月二三日設立された。』
  13. ^ a b c 興亜日本建国史 : 皇朝歴代詔勅大成 中国大観 222頁
  14. ^ 近代日本地域形成史の研究, 一色哲 著『文学科を加えた同校は正式に「順正女学校」として、1885年1月6日に発足した。』
  15. ^ 官報 1908年03月28日 706頁
  16. ^ 官報 1921年04月09日 274頁
  17. ^ 官報 1943年04月10日 319頁
  18. ^ 綱島梁川の生涯と思想, 虫明竌, 行安茂 編 早稲田大学出版部, 1981.4『昭和二三年四月、岡山県立高梁第二高等学校として新しく発足し』
  19. ^ 岡山県教育史 続編, 岡山県教育委員会 編 岡山県教育広報協会, 1974
  20. ^ 中学校入試科目としての英語及び小学校英語科-明治中期英語教育史研究- p.119, 松村幹男 著




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