湯浅敏夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 13:13 UTC 版)
杉 鮫太郎 (すぎ さめたろう) |
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誕生 | 1908年4月13日![]() |
死没 | 1994年10月19日(86歳没) |
職業 | 歌人・警官 |
言語 | 日本語 |
国籍 | ![]() |
最終学歴 | 旧制岡山県立高梁中学卒業 (現・岡山県立高梁高等学校) |
活動期間 | 1930年 - 1994年 |
ジャンル | 短歌・アララギ派 |
代表作 | 『平賀元義歌集』(1938年) 『平賀元義の歌』(1944年) 『哉生明』(1949年) 『岡山後楽園』(1966年) 『岡山の鳥』(1969年) 『岡山の短歌』(1971年) |
主な受賞歴 | 双光旭日章(1980年) 金重陶陽賞(1980年) |
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湯浅 敏夫(ゆあさ としお、1908年(明治41年)4月13日[1] - 1994年(平成6年)10月19日[2])は、日本のアララギ派の歌人。ペンネーム: 杉 鮫太郎(すぎ さめたろう)[3]、岡山県岡山市出身[4]。
経歴
生い立ち
1908年(明治41年)岡山県岡山市に住む父・湯浅立太郎、母・いなよの長男として出生する[2]。その後、父が警察官であるため、岡山県内を転々と転勤し、岡山市内の小学校から、旧制岡山県立第二中学校(現:操山高校)入学を経て、旧制津山中学(現:津山高校)、旧制高梁中学(現:高梁高校)へ転校する[2][5]。高梁中学を1928年(昭和3年)に卒業する[6]。
卒業後
同年(昭和3年)、岡山県警察部へ就職し、通信技手として働く。元々、湯浅は短歌に興味があり、アララギの斎藤茂吉の短歌を書写していた。また、岡山県師範学校で斎藤茂吉、中村憲吉の講演を聴講し、これがきっかけとなり湯浅は、アララギへ入会する[2]。ペンネームは杉鮫太郎とした[3]。
斉藤茂吉との共著で、1938年(昭和13年)に『平賀元義歌集』を発刊したのを皮切りに、『平賀元義の歌』等を発表するなど[2]、湯浅は警察として働きながら、幕末期の国学者として有名な平賀元義の研究を行い、その名が知られていた[3]。第二次世界大戦後、湯浅はアララギでの活動で、戦後のアララギが土屋文明派一辺倒へと変貌していく過程で、斉藤茂吉系統は影を薄めていっており、湯浅もその影響からアララギへの投稿をやめ「関西アララギ」の客員として、その巻頭に作品を飾るようになり、晩年近くまでこの状態が続いた[7]。
1967年(昭和42年)59歳のときに、38年間務めた警察庁技官の職を引退する。その後は、岡山にある後楽園古陶館に勤務する[2]。1980年(昭和55年)に勲五等双光旭日章受賞する。また、同年、金重陶陽賞受章する[2]。この他、湯浅は、杉鮫太郎名義で『アララギ岡山』、『美作アララギ』を主宰し発刊していた[8]。
1994年(平成6年)10月19日、86歳で死去[2]。
主な著作物
- 『平賀元義歌集』1938年, 斉藤茂吉共著
- 『平賀元義の歌』1944年, 斉藤茂吉共著
- 歌集『哉生明』1949年, 斉藤茂吉共著
- 『岡山後楽園』1966年, 宗定克則共著
- 『岡山の鳥』1969年, 宗定克則共著
- 『岡山の短歌』1971年, 藤原幾多共著
- 歌集『飛鳥出林』, 杉鮫太郎著
- 歌集『路上黄昏』, 杉鮫太郎著
脚注
- ^ 日本官界名鑑 第13版 昭和36年版, 日本官界情報社 編, 1961
- ^ a b c d e f g h レファレンス協同データベース『杉鮫太郎』
- ^ a b c 近世和歌の新研究, 森敬三 著 日本出版社, 昭和18
- ^ 愛生 12(9);9月号, 長島愛生園長涛会, 1942年9月
- ^ 〔岡山県高梁中学校有終会〕有終 第29号, 1928年1月
- ^ 〔岡山県高梁中学校有終会〕有終 第30号, 1929年2月
- ^ 竹原省三「杉鮫太郎先生」『樹林第4号』No.4,2012.7,p.30-32.
- ^ 藤本實「現代岡山歌壇史 その22『アララギ岡山』と『美作アララギ』」『岡山春秋』No.29,1954.7,p.40-42.
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