塩田卓爾とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 塩田卓爾の意味・解説 

塩田卓爾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/11 01:51 UTC 版)

しおた たくじ

塩田 卓爾
生誕 1912年5月26日
日本岡山県高梁市
死没 1996年4月17日(83歳没)
国籍 日本
出身校 東京帝国大学経済学部
職業 大蔵官僚実業家
肩書き 九州耐火煉瓦社長・会長
(現・黒崎播磨
テンプレートを表示

塩田 卓爾(しおた たくじ、旧字体盬田1912年明治45年)5月26日[1][2] - 1996年平成8年)4月17日[3] )は、日本大蔵官僚でもあり、実業家である。国内セラミックス大手3社の一角であった九州耐火煉瓦[4](現:黒崎播磨)の代表取締役社長を務めた。その後、同社の会長、相談役となる。岡山県高梁市出身[5]

経歴

生い立ち

1912年(明治45年)現在の岡山県高梁市にて出生[5]。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、陸上選手で研究者の柳井深造がいる。1930年(昭和5年)同校を卒業し、第六高等学校理科甲類へ進学する[6]が、その後、途中で大病を患って退学[7]

3年後の1933年、塩田は理系から文転し、第六高等学校文科甲類へ再入学する[8]。その後、同校を卒業し、1936年(昭和11年)東京帝国大学経済学部へ進学する[9]1939年(昭和14年)3月、同大学を26歳で卒業する[10]

実業家として

大学卒業後、大日本麦酒へ入社するが、半年で退社する[5]。そして、意を決して海を飛び越え、中国聯合準備銀行で銀行員となるも、日本が第二次世界大戦で敗戦したため、終戦後帰国する[5]。日本へ帰国後、大蔵省へ入省し官僚となり、埼玉県川越市に居住するが、1949年(昭和24年)5月31日に不運にも公職追放となる[11][12]

そのため、塩田は岡山県へ帰郷し、備前市に本社を置く、国内セラミックス大手3社の一角であった九州耐火煉瓦工業[4](会社の創業地は現在の福岡県北九州市)の門山工場へ再就職する[13]。その後、同社の総務部長となり[14][15]1964年(昭和39年)52歳のときに取締役兼総務部長となった[16]

1967年(昭和42年)には、55歳で九州耐火煉瓦の常務取締役となる[17]1971年(昭和46年)59歳のとき同社専務となり、社長の長崎勧が1977年(昭和52年)に同社の会長となったことを受けて、塩田が65歳のとき九州耐火煉瓦の社長に就任する[18]1982年(昭和57年)、窯業(セラミック)協会の副会長となる[19]1985年(昭和60年)73歳のとき、同社の会長職に就任した[20]

会長になった塩田は、日本経済新聞社の取材のときに、自身の人生を振り返り、「私は東大"不経済学部"卒業」と苦笑いして答えていた。これは、旧制高校時代に、病気を患い一度中退し、再入学、塩田が東大へ進学したときには、六高入学同期は、すでに帝大を卒業しており、旧制中高帝大と学費が高く、実家の家計へ負担が大きかったことに由来している[5]

1996年(平成8年)4月17日、83歳で死去[3]。この後、2007年(平成19年)8月、九州耐火煉瓦が株式交換により、黒崎播磨の完全子会社となる。そして、2012年(平成24年)7月、九州耐火煉瓦を黒崎播磨が吸収合併し、同社の備前工場となっている[21]

略歴

  • 1912年5月 岡山県高梁市で出生
  • 1930年3月 旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)を卒業
  • 1930年4月 第六高等学校理科甲類へ進学、その後病気で中退
  • 1933年4月 文転し再度、第六高等学校文科甲類へ進学
  • 1936年3月 六高を卒業
  • 1936年4月 東京帝国大学経済学部へ進学
  • 1939年3月 26で東大を卒業
  • 1939年4月 大日本麦酒へ入社、半年で中国聯合準備銀行へ転職
  • 1945年9月 日本敗戦後、33歳で日本へ帰国、大蔵官僚となる
  • 1949年5月 37歳のとき公職追放、岡山へ帰郷する
  • 1949年 九州耐火煉瓦工業へ就職
  • 1964年 52歳で同社取締役・総務部長へ就任
  • 1967年 55歳で同社常務取締役へ就任
  • 1971年 59歳で同社専務取締役へ就任
  • 1977年 65歳で同社代表取締役社長へ就任
  • 1982年 セラミック協会の副会長を務める
  • 1985年 73歳で社長退任、同社会長職へ就任
  • 1996年4月 83歳で死去

脚注

  1. ^ 『中国年鑑 昭和57年版 別冊』中国新聞社、1981年、
  2. ^ 『東洋会社年鑑 1981年版』東洋経済日報社、1981年1月、
  3. ^ a b 日外アソシエーツ現代人物情報
  4. ^ a b 地域地理研究 (12);2007・6, 地域地理科学会 編, 2007-06『黒崎播磨(株)、九州耐火煉瓦(株)、品川白煉瓦(株)を大手3社といい(略)』
  5. ^ a b c d e 産業人国記 1 (北海道 宮城 栃木 愛知 富山 福井 京都 岡山 広島 香川 福岡 熊本), 日経産業新聞 編, 1985.10
  6. ^ 第六高等学校一覧 昭和5年至昭和6年 143頁, 第六高等学校 編, 昭和5年『理科一年甲類二組 (高梁)塩田卓爾』
  7. ^ 第六高等学校 編『第六高等学校一覧 昭和6年至昭和7年』第六高等学校、1931年、144頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1447939/1/78 
  8. ^ 第六高等学校一覧 昭和8年至昭和9年 154頁, 第六高等学校 編, 昭和8年『文科一年甲類一組 (高梁)塩田卓爾』
  9. ^ 東京帝国大学 編『東京帝国大学一覧 昭和11年度』東京帝国大学、1936年、513頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1453465/1/266 (リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 東京帝国大学卒業生氏名録』東京帝国大学、1939年、525頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1457829/1/273 (リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 官報 1949年07月02日, 大蔵省印刷局 [編], 日本マイクロ写真, 1949年
  12. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、576頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1276156/1/609 (リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 山陽新聞社 編『山陽年鑑 昭和31年版』山陽新聞社、1955年、
  14. ^ 日本経済新聞社 編『会社年鑑 1960年版』日本経済新聞社、1959年、
  15. ^ 『産経会社年鑑〔第4版 第1〕』産業経済新聞社年鑑局、1963年、
  16. ^ 『東洋経済会社人事録 1964年版』東洋経済新報社、1964年、
  17. ^ 交詢社 編『日本紳士録 第57版』別冊附録 交詢社、1967年、
  18. ^ 『セラミックス = Ceramics Japan : bulletin of the Ceramic Society of Japan』第12巻9号、窯業協会, 1977年9月、
  19. ^ 『セラミックス = Ceramics Japan : bulletin of the Ceramic Society of Japan』第17巻9号、窯業協会、1982年9月、
  20. ^ 『会社年鑑 1986年版』日本経済新聞社、1985年10月、
  21. ^ 環境・社会報告書 2013, 黒崎播磨, 2014-02-14『九州耐火煉瓦(株)※2012.7に合併、現在は黒崎播磨(株)備前工場が』



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  塩田卓爾のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「塩田卓爾」の関連用語

塩田卓爾のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



塩田卓爾のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの塩田卓爾 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS