こうしょく‐ついほう〔‐ツイハウ〕【公職追放】
公職追放
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公職追放(こうしょくついほう)は、政府の要職や民間企業の要職につくことを禁止すること。狭義には、日本が第二次世界大戦に降伏後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止された占領政策をいい、本項で扱う。
注釈
出典
- ^ 高尾栄司 2019, p. 233.
- ^ 高尾栄司 2019, p. 233‐234.
- ^ "公職追放". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2023年3月31日閲覧。
- ^ 内閣総理大臣吉田茂・内務大臣大村清一 1947.
- ^ 『朝日新聞』1951年7月18日朝刊1面。
- ^ 「一万余名を追放解除」『日本経済新聞』昭和25年10月14日1面
- ^ 岡崎 2003, p. 297.
- ^ 『日本アナキズム運動人名事典』150頁。『近代日本社会運動史人物大事典 1』789-790頁。
- ^ “松本烝治関係文書|憲政資料(憲政資料室)|リサーチ・ナビ|国立国会図書館”. 憲政資料(憲政資料室)|リサーチ・ナビ|国立国会図書館 (2023年9月20日). 2023年12月21日閲覧。
- ^ 沢井 2013.
- ^ 『十八時の音楽浴』早川書房・解説(石川喬司)
公職追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:14 UTC 版)
戦時中に大日本報国言論会理事であったため、1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)まで公職追放となる。市川は公職追放になった最初の女性だったが、1950年(昭和25年)10月13日には追放が解除された。同年11月9日には新日本婦人同盟の臨時総会において、団体の名称が日本婦人有権者同盟と改称され、市川が会長に復帰(1953年(昭和28年)4月25日まで)。その後は、公娼制度復活反対や売春禁止、再軍備反対などの運動にも取り組んだ。
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公職追放
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「来栖三郎 (外交官)」の記事における「公職追放」の解説
翌1942年には、日米開戦に伴い2回に渡り運航された日米戦時交換船で帰国する。1945年2月に退官し、戦後はGHQにより公職追放される。1951年に追放解除となるが、1954年に死去した。
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公職追放
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小牧は公職追放対象の噂があり、1945年(昭和20年)12月26日高等官一等・従四位に任じられた翌日27日京都帝国大学を依願退職した。1946年(昭和21年)3月勲三等瑞宝章を授与され、同年11月30日中央公職適否判定委員会において小牧は追放仮指定を受ける(1951年(昭和26年)8月追放解除)。追放解除後比叡山延暦寺より「比叡山」編纂を比叡山文化総合研究会会員として依頼され、同年10月刊行した。
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公職追放
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「連合国軍最高司令官総司令部」の記事における「公職追放」の解説
戦争や大政翼賛会に関与したと見做された者は、政府機関など特定の職に就くことを禁止され、軍人や戦時中に軍へ協力的と認定された政治家、思想家などの三親等内親族と血縁者も同職へ就職が禁止されるなど公職追放が行われた。政治家や思想家、旧軍人にとどまらず、中央官僚から地方の教職員まで失職し、影響は25万人とする説もあり、この公職追放直後の期間では日本の中央政府と地方自治体は事実上機能を停止した。戦中まで戦意高揚映画を製作した東宝など映画界も影響を受けている。しかし、後に首相となる吉田茂や鳩山一郎の軋轢をはじめ、追放が日本人同士の権力争いに利用された面もある。また、後のサンフランシスコ平和条約の締結などを目指すため、国務省政策確定部長のジョージ・ケナンがワシントンと総司令部の意思疎通を図るため来日し、1948年10月に大統領の許可を得て以下のことが提言された。 占領政策の重点を改革から経済復興に目指すこと 追放を緩和し、遠からず中止すること 占領軍経費を縮小すること 日本軍が戦前行った行為に対する賠償を漸次中止すること 講和条約締結を急がせること 講和条約は懲罰的であってはならないこと 沖縄は依然として長期駐留をすること 日本の警察力を強化すること これにより旧軍閥や政治家は復帰し、後に鳩山一郎や石橋湛山が政治界に戻ってくることになった。 追放については連合国内でも批判があり、アメリカ国内でも本来目的の「軍国主義者などの日本政界からの追放」を超えた影響を及ぼしたとして、占領政策の批判を受けるなど、トルーマン大統領とマッカーサー連合国最高司令官の確執へつながるとする者もいる。
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公職追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 23:01 UTC 版)
戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は、国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令をもってGHQにより公職追放された。この公職追放は吉田茂が関わっていると云われた。1951年(昭和26年)の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。この時期に立正大学から懇請されて、学長に就任した。
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