きし‐のぶすけ【岸信介】
岸信介
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岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。1957年から1960年まで内閣総理大臣(第56・57代)を務めた。位階勲等は正二位大勲位。出生名は佐藤 信介(さとう のぶすけ)。
注釈
- ^ 他の肩書きを列挙すると、日米協会長、アジア国会議員連合議員団長、日韓協力委員会長、フィリピン協会長、自主憲法制定国民会議長、自主憲法期成議員同盟会長がある[10]。
- ^ (財)家族計画国際協力財団の会長を務める。副会長は加藤シヅエ。常任理事は国井長次郎。同財団は1968年4月22日設立。東京都新宿区市ヶ谷砂土原町1-1保健開館別館[11]。
- ^ 信介が物心ついて、田布施の家で、冬の夜など、兄弟姉妹が炬燵をとり囲んで、雑談などしている時、信介少年は自分だけが山口の八軒家で生まれたということにより、ちょっと仲間はずれになったような感じがしたこともあったという[14]。
- ^ 吉本重義 1957, p. 54に「中央大学の予備校に通い…」とある。
- ^ 議院法第76条に基づき、「法律ニ依リ議員タルコトヲ得サル職務ニ任セラレタルトキ」は衆議院議員退職者となることとされていた[41]。
- ^ 実際に岸は前官礼遇を与えられなかったが[45]、この時点での国務大臣在任期間は3年足らずで、内規に定められた「国務大臣在職4年以上」の基準を満たしていなかった。
- ^ マッカーサーは1957年10月18日付けで国務省に送った公電で、岸の個人的人気が高くないことを指摘しつつも、「岸は現時点で、米国の目的から見て、最良のリーダーだ。岸が敗北すれば、後継首相は弱体か非協力的、あるいはその両方だろう。その場合、日本ひいては極東における米国の立場と利害は悪化する」と述べ、岸の支援を本国へ訴えている[64]。
- ^ 国際政治学者の権容奭は、「ダレスとの会談記録を読むと、主導権を持っていったのはダレスでありアメリカ側だった。岸は内心、苦々しい思いをしたのではないかと推測できる」「アメリカだけ信じていたらダメだ、依存していたらダメだということを強く思ったんじゃないかと思う」と述べ、その後の岸は、アメリカ一本ではなく、イギリスや中国、インドなど、日本独自の外交オプションを広げていったとしている[65]。
- ^ このとき、岸の渡米妨害を目的とした学生集団が羽田空港ロビーを占拠する事件を起こしている[87]。
- ^ ここで登場した「右翼宗教団体」とは、当時急速に会員を増大させていた創価学会を指しており、岸も創価学会の会長に就任したばかりの池田大作に対し、大阪事件の裁判で無罪を言い渡すという交換条件を示して協力を依頼したが、これは断られたという[91]。
- ^ 自衛隊出動については、岸以外にも池田勇人(通産大臣)・佐藤栄作(大蔵大臣)・川島正次郎(自民党幹事長)らが赤城に対して働きかけを行っていた[96]。
- ^ 日本の経済が発展したという側面もある[130]。
- ^ 見送りに来た佐藤寛子に「あとは栄作しかいないんだよ」と語っていた[136]。
- ^ 日本選手権シリーズに関しては、1960年の日本シリーズ第1戦で、この年岸の後任として就任した池田勇人が始球式をおこなった事例がある[194]。
- ^ 2013年5月5日、東京ドームで開催された巨人対広島の試合前に長嶋茂雄と松井秀喜の国民栄誉賞授賞式が行われ、授与式終了後の始球式において安倍晋三が球審役を務めている。
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岸信介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 20:16 UTC 版)
当時、満州国国務院実業部総務司長。のちに東條内閣において商工大臣。戦後、戦犯容疑者となるも復権、のちに首相。
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岸信介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:00 UTC 版)
官僚時代に自民党幹事長であった岸信介と対面したことがある。そのときには、岸が大変な素晴らしい能力の持ち主であるとともに戦争に対する反省がないという印象を受けた。 後藤田は、「岸さんの立場になれば言い分はあるだろうな」としながらも、個人的には元戦犯容疑者が日本の首班になることに対しては疑問があったとしている。 田中判決解散にあたって中曽根から獲得議席の見通しを尋ねられた後藤田は20議席は減るだろうと答えたが、第37回衆議院議員総選挙はそれをさらに大きく下回る34議席減となる大敗北を喫し、後藤田の読み違いにより自民党は半数を割り込むこととなった。この結果に対して党内で責任を問う声が噴出し、中曽根の進退問題にまで発展したが、党最高顧問となっていた岸が中曽根の外交と内政を支持したことから、中曽根政権は延命した。
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岸信介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:10 UTC 版)
岸信介首相が日米安保条約改定を行った1960年、村山は大分市議会議員だったが国会周辺で行われた安保反対デモに参加した。「岸内閣のやり方は、民主主義を否定するものという意識が強かった」と述懐している。ただ村山は首相に就任した直後の1995年7月20日の国会答弁で、自衛隊の合憲を認めるとともに、日米安保条約の容認も表明し、長年の日本社会党の政策転換を行った。
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岸信介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 02:06 UTC 版)
1954年には、鳩山一郎を総理大臣にするために三木武吉の画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自民党になった。誠心誠意嘘をつくなど名言を残した三木武吉は病の床で「こだまをよろしく」との言葉を残した。 後その後も自民党と緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。 岸首相の第1次FX問題をめぐる汚職を社会党の今澄勇が追及していた時には等々力の児玉の私邸へ二度も呼び、児玉は追及を止めるように圧力をかけた。今澄がこれを拒むと、今澄の政治資金の提供元と金額・使っている料理屋・付き合っている女が全て書かれていた身上調書を今澄に渡して全てを明かすとして追及を止めさせている。児玉は東京スポーツを所有する他に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。それらに書き立てられることは脅威となった。 日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をした。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。改定に反対する安保闘争を阻止するため、岸信介首相は自民党の木村篤太郎らにヤクザ・右翼を動員させたが、児玉はその世話役も務めた。 1962年(昭和37年)の夏頃から、「(安保闘争のような)一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という構想のもと、児玉誉士夫は東亜同友会の結成を試みた。結局、同会は結成されなかった。しかし、錦政会・稲川裕芳会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らの同意を取り付けていた。昭和38年(1963年)には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組・田岡一雄組長と町井会長との「兄弟盃」を実現させた。
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岸 信介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 09:48 UTC 版)
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