高木 正年 (たかぎ まさとし)
1856〜1934 (安政3年〜昭和9年) |
【政治家】 全盲の代議士。弱者の立場に立った活動を一貫。 |
明治・昭和期の政治家。江戸品川生れ。1881年(明治14)に東京府会議員となった。90年第1回帝国議会に民生党から立候補して当選。政府の軍備増強に反対したため、弾圧を受ける。品川漁民問題で奔走するうち眼病を患い失明。以後盲人運動にも取り組み、1920年(大正9)点字による選挙投票の公認の請願を提出。また、婦人公民権、植民地の人権問題など、大正デモクラシーを背景に庶民の視点から誠実な政治活動を展開した。 |
年(和暦) |
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●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 | 2才 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 | 4才 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 | 6才 |
●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 | 7才 |
●1867年 (慶応3年) | ■大政奉還 | 11才 |
●1868年 (明治元年) | ■鳥羽・伏見の戦い | 12才 |
●1869年 (明治2年) | ■版籍奉還 | 13才 |
●1871年 (明治4年) | ■廃藩置県 | 15才 |
●1871年 (明治4年) | ■解放令 | 15才 |
●1873年 (明治6年) | ■徴兵制布告 | 17才 |
●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 | 20才 |
●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 | 21才 |
●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 | 21才 |
●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 | 26才 |
●1883年 (明治16年) | ■鹿鳴館完成 | 27才 |
●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 | 33才 |
●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 | 38才 |
●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 | 47才 |
●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 | 48才 |
●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 51才 |
●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 54才 |
●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 62才 |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 67才 |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 | 72才 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 | 76才 |
・星 亨 | 1850年〜1901年 (嘉永3年〜明治34年) | +6 |
・小泉 八雲 | 1850年〜1904年 (嘉永3年〜明治37年) | +6 |
・Conder J. J. | 1852年〜1920年 (嘉永5年〜大正9年) | +4 |
・Eckeert Franz Von | 1852年〜1916年 (嘉永5年〜大正5年) | +4 |
・島田 三郎 | 1852年〜1923年 (嘉永5年〜大正12年) | +4 |
・高村 光雲 | 1852年〜1934年 (嘉永5年〜昭和9年) | +4 |
・明治天皇 | 1852年〜1912年 (嘉永5年〜大正元年) | +4 |
・Fenollosa E. F. | 1853年〜1908年 (嘉永6年〜明治41年) | +3 |
・高橋 是清 | 1854年〜1936年 (安政元年〜昭和11年) | +2 |
・田口 卯吉 | 1855年〜1905年 (安政2年〜明治38年) | +1 |
・浅井 忠 | 1856年〜1907年 (安政3年〜明治40年) | 0 |
・快楽亭 ブラック | 1858年〜1923年 (安政5年〜大正12年) | -2 |
・田中 長兵衛 | 1858年〜1924年 (安政5年〜大正13年) | -2 |
・妻木 頼黄 | 1859年〜1916年 (安政6年〜大正5年) | -3 |
・Bigot G. | 1860年〜1927年 (万延元年〜昭和2年) | -4 |
・内村 鑑三 | 1861年〜1930年 (文久元年〜昭和5年) | -5 |
高木正年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/28 06:56 UTC 版)

高木 正年(たかぎ まさとし[1] / せいねん[2]、1857年1月4日(安政3年12月9日[1])- 1934年(昭和9年)12月31日[2])は、日本の政治家。日本初の視覚障害をもつ衆議院議員であった。
生涯
安政3年12月、武蔵国荏原郡南品川で質屋を営んでいた細井半兵衛以年の三男として生まれる[3]。幼くして英才の誉れあり、親戚の高木一兵衛以考の養子になる[3]。この養父は幕臣で本草学者であったという[3]。12~16歳時に、隣家に隠棲していた木村芥舟に学ぶ[1]。その後、猿渡容盛、井上頼圀、江木高遠に学ぶ[1]。
1883年(明治16年)の第2期東京府会議員に当選する[1]。1890年、第1回総選挙に立候補して当選し、衆議院議員になる[1]。34歳だった。1892年の第3回総選挙では、第1次松方内閣の選挙大干渉にあい落選した。これは失明前の唯一の落選であった[1]。当選回数は計13回、議員生活39年に及んだ。
1890年(明治23年)12月に出版された 『国会傍聴 議場の奇談』には「説教議員とは時に早々時に遅々口調恰(あたか)も坊さんの説教然たるを以てなり 尾崎氏の動議に賛する高木正年氏」と記されている。
1897年(明治30年)40歳の時に緑内障のために失明した[1][3]。同僚議員柴四朗の励ましなどにより失明からの立直りは一般の失明者に比べて早かった[4]。失明の身で広い選挙区(第5区=荏原郡・豊多摩・伊豆七島)をまわり、選挙運動にも励んだ[5]。1903年(明治36年)の第1回全国盲人大会に出席した[1]。
1934年12月に逝去した。78歳だった。日本で、視覚障害をもつ国会議員になった2人目は、1989年の参議院通常選挙で当選した堀利和であった[6]。
『道ひとすじ―昭和を生きた盲人たち―』で、昭和時代に活躍した著名な盲人100人の一人に挙げられている。
年譜

- 1857年1月4日 武蔵国荏原郡南品川で生まれる。生家は細井家、その後親戚の高木家の養子になる[1]。
- 1883年 第2期東京府会議員に当選[1]
- 1890年 第1回総選挙に立候補し、衆議院議員になる[1]
- 1892年 第3回総選挙で、松方内閣の選挙大干渉にあい落選(失明前の唯一の落選)[1]
- 1897年 緑内障のため失明[1]
- 1898年3月 第5回総選挙で落選[1]
- 1898年8月 第6回総選挙で当選[1]
- 1903年 第1回全国盲人大会(築地本願寺)に出席[1]
- 1908年5月 第10回総選挙で当選、以後毎回当選。
- 1928年(昭和3年)2月 第1回普通選挙(第16回総選挙)で4万7278票を得てトップ当選[1]
- 1930年 第2回普通選挙(第17回総選挙)で2位当選[1]
- 1932年 第3回普通選挙(第18回総選挙)で4位当選[1]
- 1934年12月 逝去、享年78。墓地は東京都品川区南品川 妙蓮寺[7]
出典
参考文献
- 『道ひとすじ―昭和を生きた盲人たち―』あずさ書店、1993年。ISBN 4900354341
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
「高木 正年」の例文・使い方・用例・文例
- 株式会社高木鉄鋼の北九州工場の工場長の西田と申します。
- 16年間、ここに住んでいる高木さんも驚きました。
- 高木さん、ゴルフはやりますか。
- 高木と低木.
- 低木や高木を刈り込んで装飾的な形を作ること
- 高木限界を超えて住む、または成育する
- 発育を阻害された高木や、低木から成る密生した草木
- 広く木々の密生した地域の高木やその他の植物
- 下生えのない高木の小さな茂み
- 山麓地帯上で、高木限界よりも下に横たわる地域
- 多少高度な双子葉植物の高木、低木、および草本の科
- ある程度発達した双子葉植物の科で、草本と何種かの高木、低木からなる
- 多少高度な双子葉植物の高木、低木、および草本の属
- いくぶんか発達した双子葉植物の属で、草本と何種かの高木、潅木からなる
- ソテツ科の標準属:旧世界に広く分布する常緑の熱帯性高木で、羽状の葉と、落ちた葉の基部で覆われた円柱形の幹を持つ
- 枝の多い、主に常緑の高木または低木で、幅の狭い、あるいは針状の葉を持つ
- ロッキー山ピニヨン松に似ているが、束ごとに単針を有する非常に小型の高木
- 欧州産高木で、細長い円錐形の樹冠、平たい針葉、有毛の球果の鱗片を持つ
- トドマツ属の常緑高木の総称
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