たいせい‐ほうかん〔‐ホウクワン〕【大政奉還】
大政奉還 (たいせいほうかん)
大政奉還 (たいせいほうかん)
大政奉還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/20 09:32 UTC 版)
大政奉還(たいせいほうかん)は、慶応3年10月14日(1867年[3]11月9日)に日本の二条城で江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日(1867年11月10日)に天皇が奏上を勅許したこと。
- ^ a b 青山忠正 2017, p. 131.
- ^ 青山忠正 2017, p. 131-133.
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月3日閲覧。
- ^ “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。
- ^ a b “「大政奉還」克明に記録-「慶喜は大広間で各藩重臣に表明した」に非ず、参加者自筆の記録を初確認 二条城伝達から150年(1/2ページ) - 産経WEST”. 産経WEST. 産経新聞社 (2017年10月13日). 2019年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月23日閲覧。
- ^ a b 青山忠正. “第7回「慶喜は姿を見せたか?”. 京都市. 2022年6月15日閲覧。
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- ^ a b c 青山忠正 2017, p. 132.
- ^ 「土佐藩大政奉還建白書写」(三条家文書12-8)慶応3(1867)
- ^ 「土佐藩大政奉還建白書写」
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- ^ 高橋秀直 2003, p. 41-42、58.
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- ^ 高橋秀直 2001, p. 15-34.
- ^ 田中彰 『幕末維新史の研究』吉川弘文館〈日本史学研究叢書〉、1996年、188-192頁。ISBN 4-642-03660-1。
- 1 大政奉還とは
- 2 大政奉還の概要
- 3 大政奉還の上表の内容
- 4 備考
大政奉還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 10:03 UTC 版)
10月3日に主君・山内容堂ほか4名と連名して、老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出した。これを受けて10月14日将軍・徳川慶喜は大政を奉還し、朝廷に受け入れられた。この直前、左膳は報告のため帰藩している。11月、再び上京するが、すでに左膳と在京重臣との間には方針の隔たりがあり、国事掛は後藤・福岡・神山左多衛の3人に任され、左膳は「君側専務之任」となった。
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大政奉還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
土佐藩士・後藤象二郎や福岡孝弟らが同藩主・山内容堂らによる大政奉還を勧める建白書をみて、慶喜は将軍職を継ぐと決めた時からの志――王政復古により、以前から希望していた議会主義による国会を設けた二院制合議政体への移行を果たしつつ、即時の攘夷戦は不可能と朝廷へ建言し征夷大将軍の覇府としての江戸幕府を閉じる志――を遂げる好機会だと考え、10月14日、大政奉還を上表した。薩摩藩士・小松帯刀は、薩長両藩への討幕の密勅はこれより先すでに内定があり、大政奉還はそれよりあとでは効果がないと知っており、討幕の密勅が出される以前に、大政奉還を今すぐ発するべきだと徳川幕府へ勧めていた。これは薩長による武力討幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという策略だったと見られている(公議政体論)[誰?]。慶喜は後年『昔夢会筆記』で、大政奉還の決心とその後の徳川家の立場をどう考えていたかとの問いに「それは真の考えは、大政を返上して、それで自分が俗にいう肩を抜くとか、安を偸(ぬす)むとかいうことになってすまない、大政を返上した以上は、実は飽くまでも国家のために尽くそうという精神であった。しかし返上した上からは、朝廷のご指図を受けて国家のために尽くすというのだね、精神は。それで旗本などの始末をどうするとかこうするとかいうことまでには、考えが及ばない。ただ返上した上からは、これまでのとおりにいっそう皇国のために尽くさぬではならぬ、肩を抜いたようになってはすまぬというのが真の精神であった。あとで家来をどうしようとかこうしようとかいうことまでには、考えがまだ及ばなかった」と答えた。イェール大学東アジア研究所博士研究員マイケル・ソントンはその著『水戸維新』(2021年)で、「仮に(慎重な戦略的政治家だった)慶喜が王政復古を考えていたとしても、政治から離れるつもりはなかった。フランスの指導で西洋式兵制に着手し、徳川家の棟梁が実戦で軍隊を率いる準備を整えようとしたことはそのあたりの意思を物語っている」としているが、実際、慶喜は晩年『昔夢会筆記』のなかで「王政に復するというと大変今日(明治維新後)からみればたやすいようだが、さてその王政に御復しになる手段はどうなさるといわれると、誰もその手段がつかない」「それにまたひとつは外国の事(欧米列強からの植民地侵略の脅威)があり、内外切迫(薩長同盟による倒幕の動き)の結果だ。それでその王政復古という立派な名にして、そうして(それまで政治的に無力化していた朝廷に代わって、政治的実務全般をこなしてきた事実上の日本の統一政権である江戸幕府の長として、政権を朝廷の天皇家へ返上する禅譲の行動をした)自分が(国事上の責任放棄の形で)その肩を抜くようになってもならず、また王政になった以上は、これまでよりも国家のために尽くさねばならぬ。いろいろそこに考えもある。とにかく諸侯を集めて、腹蔵(伏蔵)なく公平なところの評議に及んだらよかろう、長州はもうどうあろうとも寛大でよい。あれはあれでよいという考えを出したが、少しそういう辺にもいかなかったのだ……。」と語り、むしろ王政復古後の姿を誰も知らない状況下で政治的指導力を発揮し、あらたな合議政体下で天皇家の一忠臣として皇国の為に尽くそうとしていた。同1867(慶応3)年11月当時の慶喜のブレーンのひとりで、幕府開成所教授職を務めた蘭学者で思想家・西周は、慶喜側近の幕臣・平山敬忠へ『議題草案』を献上し、天皇を象徴的地位に置いた上で、大君を国家元首とし、三権分立をとりいれた近代議会制の政体案を出していた。公家・岩倉具視はのち慶喜の大政奉還について「孝明天皇と将軍家茂がどちらも没したとき、将軍後継者の慶喜は有能な人物で、天皇に直結した政府が絶対に不可欠と見抜くことができた。この心からの確信で、慶喜は単なる贈り物としてではなく彼の政権を天皇へ禅譲したが、それが存在する政治的困難の数々を解決するただひとつの道だったからだ」と述べた。 諸国の大名は様子見をして上京しないまま諸侯会議が開かれず、逆に旗本の中には無許可で上京してくるものも相次いだ。
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大政奉還
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1868年、幕府が江戸城を明け渡して徳川慶喜も水戸に謹慎することになると、京都における本圀寺勢(天狗党派)が朝廷より「除奸反正」(市川三左衛門らを討伐し,藩政を正常化せよの意)の勅書を賜る。情勢の不利を察した市川は、4月、諸生党約500名を率いて水戸を脱出し、戊辰戦争においては奥羽・越後各地を転戦して官軍と戦う。しかし、9月に会津が落城すると行き場を失って再度水戸へ戻り、藩校弘道館に拠って水戸城に拠る本圀寺勢と戦闘に及んだ(弘道館戦争)。しかし、市川自身も二人の子息を失うなど多数の死傷者をだして下総方面へ敗走し、銚子や匝瑳にて追討される(松山戦争)。これによって諸生党残党は壊滅したが、市川は脱して江戸に潜伏した。 市川は江戸市中の寺院や旧友宅に潜伏したが、1869年2月に藩の捕吏に縛されて水戸へ移送された。4月、水戸郊外の長岡原で逆さ磔の極刑に処された。墓所は水戸市の祇園寺。なお同寺には諸生党士の慰霊碑(恩光無辺の碑)がある。
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大政奉還
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慶応3年10月14日(1867年11月9日)、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還。翌慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。 慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という挟撃策を提案した。後に、この作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れたという逸話がある。実際、この時点において旧幕府側は、鳥羽・伏見の戦いに参加していなかった多数の予備兵力を保有していたが、慶喜はこの作戦を退けて勝海舟の恭順論を採った。 ただし、一方で慶喜は和戦両論の構えを取っており、横浜の警備体制を増強して、箱根関と碓氷関に目付を派遣し、官軍を迎え撃つ体制を強化している。小栗の作戦を却下した理由としては、その時点での慶喜はあくまで武備恭順の姿勢であり、家臣団が小栗の意見に引きずられて武備恭順の域から逸脱するのを防ぐためだったと推測されている。慶喜としては抗戦の意思を捨てる気はないものの、薩長の官軍化に困惑する味方を安心させる為、朝廷に対して恭順の意思を見せる必要があり、明確に敵対の意思を示す小栗の作戦は受け入れることが出来なかったとされる。なお、幕臣のほとんどは主戦論を唱えていたが、小栗の作戦以外にも「軍艦で大坂城を攻撃する」「富士川で官軍を食い止める」「碓氷峠を防衛線にする」など様々な作戦が提案される議論百出の状態で、一つの意見に集約できる状態ではなかったという。 慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて勝手掛老中松平康英から呼出の切紙を渡され、芙蓉の間にて老中酒井忠惇、若年寄稲葉重正から御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されると、同月28日に「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した。旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたものの、これを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えた。また、2月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されたが、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した。3月初頭、小栗は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。当時の村人の記録によると、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子は見られない。
※この「大政奉還」の解説は、「小栗忠順」の解説の一部です。
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