大政奉還に於ける広島藩の働き
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「浅野長勲」の記事における「大政奉還に於ける広島藩の働き」の解説
慶応3年(1867年)正月4日に執政・石井修理(しゅり)が閣老板倉勝静に大政奉還の建白書を提出、翌5日に菅野肇が伝奏飛鳥井雅典へ上奏書を提出する。幕府と朝廷に対して提出したものの、機が熟していなかったか成就しなかった。その後、広島藩の執政・辻将曹が御手洗(呉市)の密貿易で交流のあった薩摩藩の家老・小松帯刀と協議、小松が土佐藩の後藤象二郎にも話し、7月3日、三藩で大政奉還の建白書の提出と、京都への出兵を計画する。報告を受けた茂勲の早く完了させよとの指示により、岡山藩、鳥取藩・徳島藩へと賛同者を広げていく。 一方で土佐の山内容堂は、大政奉還の建白書は認めるが京都出兵は認めなかったため、広島・薩摩・土佐の三藩出兵計画は頓挫した。そこで広島・薩摩両藩は毛利家の名代を京都に謝罪に行かせるという名目で長州藩を出兵させるべく、三藩軍事同盟を計画する。窓口になったのは広島藩京都応接掛・黒田益之丞、長芸連絡役・植田乙次郎、薩摩藩・大久保一蔵(利通)、長州藩・木戸準一郎(桂小五郎・木戸孝允)であった。10月1日、薩摩藩は藩内で意志の統一が出来ていなかったため、土佐藩のことも影響して小松帯刀の思うような出兵が出来ず、出発直前に三藩出兵が頓挫してしまう。 10月3日、薩芸土の密約を無視し、大政奉還の建白書を土佐藩が抜け駆けで幕府に単独提出した。7月3日の密約とその後の経緯の詳細を聞かされた中岡慎太郎は、血相を変えて後藤を斬ると息巻いていたが、諭されて思い留まる。10月6日、広島藩も老中・板倉勝静に2回目の大政奉還の建白書を提出する。10月15日、大政奉還が朝廷に受理される。10月17日、在京の広島藩兵876人、薩摩藩兵約2千人が、会津・桑名藩兵を強引に外させて京都御所の警備に就く。 10月17日、島津忠義が三田尻(山口県)に到着。10月30日、長州藩嫡子・毛利元徳と会見する。11月15日、中岡慎太郎、坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺される。11月26日、御手洗(呉市)に於いて島津茂久が約3000人、長州藩から約1200人、広島藩・茂勲が422人、広島藩総督・岸九兵衛200人、尾道より長州藩兵約1300人が京都に向けて海路で三藩出兵が実行された。長州兵の船には広島藩と薩摩藩の旗を使用して偽装した。 12月1日、広島藩執政・辻将曹により広島藩兵へ京都離脱命令(大政奉還が為された以上、戦をすべきではない)が下りる。12月9日、王政復古の大号令で議定となり、小御所会議では御所の封鎖に兵を出して協力し、出席している。同会議では対立する薩摩藩・岩倉具視と土佐藩を仲介した。 慶応4年(1868年)正月3日、鳥羽伏見の戦いに突入、ここから戊辰戦争へ流れていく。戊辰戦争での広島藩の動きは「神機隊」を参照。
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