大政奉還に於ける広島藩の働きとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 大政奉還に於ける広島藩の働きの意味・解説 

大政奉還に於ける広島藩の働き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:18 UTC 版)

浅野長勲」の記事における「大政奉還に於ける広島藩の働き」の解説

慶応3年1867年正月4日執政石井修理(しゅり)が閣老板倉勝静大政奉還建白書提出、翌5日菅野肇伝奏飛鳥井雅典上奏書を提出する幕府朝廷に対して提出したものの、機が熟していなかったか成就しなかった。その後広島藩執政辻将曹御手洗(呉市)密貿易交流のあった薩摩藩家老小松帯刀協議小松土佐藩後藤象二郎にも話し7月3日三藩大政奉還建白書提出と、京都への出兵計画する報告受けた茂勲の早く完了させよとの指示により、岡山藩鳥取藩徳島藩へと賛同者広げていく。 一方で土佐山内容堂は、大政奉還建白書認めるが京都出兵認めなかったため、広島薩摩土佐三藩出兵計画頓挫した。そこで広島薩摩両藩は毛利家名代京都謝罪行かせるという名目長州藩出兵させるべく、三藩軍事同盟計画する窓口になったのは広島藩京都応接掛・黒田益之丞、長芸連絡役・植田乙次郎、薩摩藩大久保一蔵利通)、長州藩木戸準一郎桂小五郎木戸孝允であった10月1日薩摩藩は藩内で意志統一出来ていなかったため、土佐藩のことも影響して小松帯刀思うよう出兵出来ず出発直前三藩出兵頓挫してしまう。 10月3日、薩芸土の密約無視し大政奉還建白書土佐藩抜け駆け幕府単独提出した7月3日密約その後の経緯詳細聞かされ中岡慎太郎は、血相変えて後藤斬ると息巻いていたが、諭されて思い留まる10月6日広島藩老中板倉勝静2回目大政奉還建白書提出する10月15日大政奉還朝廷受理される10月17日在京広島藩兵876人、薩摩藩兵約2千人が、会津桑名藩兵を強引に外させて京都御所警備に就く。 10月17日島津忠義三田尻山口県)に到着10月30日長州藩嫡子毛利元徳会見する11月15日中岡慎太郎坂本龍馬京都近江屋暗殺される11月26日御手洗(呉市)に於いて島津茂久が約3000人、長州藩から約1200人、広島藩・茂勲が422人、広島藩総督・岸九兵衛200人、尾道より長州藩兵約1300人が京都向けて海路三藩出兵実行された。長州兵の船には広島藩薩摩藩の旗を使用して偽装した。 12月1日広島藩執政辻将曹により広島藩兵へ京都離脱命令大政奉還為された以上、戦をすべきではない)が下りる12月9日王政復古の大号令議定となり、小御所会議では御所封鎖に兵を出して協力し出席している。同会議では対立する薩摩藩岩倉具視土佐藩仲介した。 慶応4年1868年正月3日鳥羽伏見の戦い突入ここから戊辰戦争流れていく。戊辰戦争での広島藩動きは「神機隊」を参照

※この「大政奉還に於ける広島藩の働き」の解説は、「浅野長勲」の解説の一部です。
「大政奉還に於ける広島藩の働き」を含む「浅野長勲」の記事については、「浅野長勲」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大政奉還に於ける広島藩の働き」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

大政奉還に於ける広島藩の働きのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大政奉還に於ける広島藩の働きのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの浅野長勲 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS