大政奉還と王政復古の大号令
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「徳川慶喜」の記事における「大政奉還と王政復古の大号令」の解説
土佐の後藤象二郎の大政返上策が薩長土芸の間で合意された。慶喜がこれを受け入れる可能性を信じていなかった西郷隆盛らはこれを武力討幕のシグナルと位置付けていた。そして土佐藩は「天下ノ大政ヲ議スル全権ハ朝廷ニアリ」「我皇国ノ制度法則一切万機必ズ京都ノ議政所ヨリ出ヅベシ」とする上書を慶喜に送った。 慶喜は8月から9月頃までには反徳川雄藩連合の形成が急速に進んでいる情勢に気づいて警戒を強めていた。もしこの土佐の献策を受けねば土佐は全体としても武力討幕派に転じることになり、越前と肥後、肥前、尾張もそれに同調する可能性が高いので受け入れるしかなかった。逆に受け入れれば武力討幕論は主張しにくくなると考えられた。 詳細は「大政奉還」を参照 こうして慶応3年(1867年)10月14日に慶喜は大政返上上表を明治天皇に奏上し、翌日勅許された(大政奉還)。しかし大政奉還されたところで朝廷には何の実力もないため、朝廷は日常政務について「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}先是迄之通(まずこれまでのとおり)ニテ、追テ可及御沙汰候事」と返答せざるを得ず、結局実態としては慶喜政権が継続されたままとなった。 朝廷内で慶喜に与えられる地位についても朝廷内の実権を関白二条斉敬と中川宮が握っている限り、また慶喜が800万石の卓絶した大名であり続ける限り、事実上の支配的地位が与えられると考えられた。やがて開催される諸侯会議でも慶喜は多数の支持を期待できたし、京都の軍事情勢を転換させるために江戸から続々と兵が上京中だった。このような状況のため大政奉還しようとも慶喜の実質的支配が続くことは覆り様がないように思われた。しかし慶喜が見落としていたのは大政を奉還した以上、大政を委任されていた時期と異なり、もし朝廷の構成や政策が転換された場合には慶喜側にはなす術がないという点であり、それが現実のものとなる。 大政奉還によりいったん武力討幕方針を中止した西郷隆盛らは、現状としては慶喜と旧幕府機構の横滑りでしかなく、朝廷には何らの物質的基礎も保証されていないことを確認すると前年以来反幕派公卿の指導者になっていた岩倉具視と連携してこれを覆すべく行動を開始した。12月8日の朝議では慶喜の反対を退けて長州藩の復権と三条実美ら五卿帰洛が決定され、さらに翌12月9日には薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩が政変を起こして朝廷を掌握し、慶喜を排除しての新政府樹立を宣言した(王政復古の大号令)。その会議において「慶喜の辞官(内大臣の辞職)納地(幕府領の奉納)」が決定する。 慶喜は王政復古の大号令に激昂した会津・桑名藩を鎮めるため、彼らを引き連れて大坂城に退去しつつ、諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。一方王政復古で新政府を発足させた5藩の間でも旧幕勢力の武力討伐を目指す薩摩藩と慶喜を取り込んだ形での漸進的移行を画策した土佐・越前藩では温度差があり、慶喜は越前・土佐に運動して辞官納地を温和な形とし、年末には自身の議定就任(新政府への参画)がほぼ確定する。
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