アヘン戦争から日清修好条規へ
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「日中関係史」の記事における「アヘン戦争から日清修好条規へ」の解説
明と同様に海禁政策を実施していた清は、貿易港を広州のみに限定して広東十三行と呼ばれる組合組織を通してのみ交易を許可した。それを不満とした大英帝国は外交交渉を試みるが清は朝貢伝統を固持したため、英国は東インド会社を活用して三角貿易を構築、清国内にアヘンを不正流入させた。清は林則徐を現地に派遣し徹底した取締りをしたため、英国は1840年にアヘン戦争を起こした。南京条約によって、香港が英国に割譲され、上海などの開港・公行の廃止・戦争賠償金の支払いが決まった。片務的最恵国待遇が適用され、清は列強と次々に不平等条約を結ぶことになる。それに対して洪秀全らが「滅満興漢」を唱えて太平天国の乱を起こすが、郷勇の曽国藩・李鴻章らや常勝軍がそれを鎮圧した。1856年に起きたアロー号事件などをきっかけに、英国はヴェトナムの保護国化を画策していたフランスと共同で清に対してアロー戦争を仕掛けた。清は再び圧倒的な差で敗れたが天津条約の批准に武力で反抗したため、ロシア帝国の仲介を経て北京条約を批准するに至った。 漢民族の曽国藩・李鴻章らは国家再建を祈願し「中体西用」を唱えて洋務運動を展開、清は「同治中興」の時期を迎える。厳復らによって多くの洋書が漢語に翻訳され、また同時に日本の翻訳書からの重訳も多々行われ和製漢語を中国側が逆輸入する現象が起きた。この頃、高杉晋作らは幕府船「千歳丸」で上海へ派遣されており、英仏による租界の実態や太平天国の世を視察した。これを契機に孔孟・諸葛孔明・李杜韓白などを通して「聖人の国」として崇拝していた日本人の「支那」観が次第に蔑視化していくことになる。 1840年のアヘン戦争は江戸幕府に大きな衝撃を与えた。幕府は風説書や蘭学などを通してこの情勢を「近代的に分析」して、1825年に出した異国船打払令を天保の薪水給与令に緩和することを1842年に決めて鎖国体制が崩壊していく。1853年にペリーの浦賀来航で開国を迫られ、翌年から米国やそのほかの列強と次々に不平等条約を結ぶことになった。こうした井伊直弼の失態を受けて尊王攘夷が薩摩藩・長州藩から沸き起こり、1867年の大政奉還と王政復古の大号令で幕藩体制が終焉、明治維新の時代を迎えた日本は廃藩置県などの政策を実施して近代化の道を進んでいく。日本と中国大陸の関係も、西洋帝国主義の潮流の中で構造変化が生じていく。 江戸幕府のころから、「千歳丸」「健順丸」を派遣するなどして清との貿易が試みられていたが、清は一般化を拒絶していた。大政奉還後、1870年8月、明治政府も清に対して修交提議をしたが、やはり清はこれに応じなかった。しかし、李鴻章や曽国藩は近代国家として発展しつつある日本と通商を開くことの道理を説き、清はついに修交に決した。かくして、1871年7月に伊達宗城と李鴻章の間で日清修好条規が調印された。これは日清相互に治外法権と領事裁判権を承認し合うことによる平等条約であり、ここに中華思想に基づく冊封・朝貢関係が崩壊し、近代的な国交関係が日清の間で確立した。日本側は特命全権公使に森有礼を任命して北京に派遣した。 1872年、日本寄港中の外国船に積み込まれた奴隷状態の清国人を日本政府が解放する(マリア・ルス号事件)。1874年、台湾で琉球の漁民が殺害されたのを契機に日本軍が台湾出兵を行う。1879年、琉球処分により琉球藩が沖縄県になった。
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