にっしん‐しゅうこうじょうき〔‐シウカウデウキ〕【日清修好条規】
日清修好条規
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/24 23:08 UTC 版)
日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は、1871年9月13日(明治4年7月29日、同治10年)に、天津で、日本と清の間で初めて結ばれた近代的な条約。両国にとって開国後、初めて外国と結んだ「対等」条約であった[1]。
注釈
- ^ 岩倉使節団の副使として欧米を周覧する以前の木戸は新政府部内で最も強硬に征韓論を唱えていた[6]。
- ^ 琉球御用船台湾漂着事件(宮古島島民遭難事件)とは、明治4年(1871年)、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた先島諸島(宮古列島・八重山列島)の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾島南東岸に漂着した69人のうち、山中をさまよった生存者54名が現地人(台湾原住民)によって殺害された事件。
- ^ マリア・ルス号事件とは、明治5年(1872年)、日本の横浜港に停泊中のペルー船籍のマリア・ルス号の清国人苦力(クーリー)を奴隷であるとして日本政府が解放した事件。
- ^ ただし、1874年(明治7年)の台湾出兵に際しては、清国政府は日本に対し、台湾への無断出兵は日清修好条規違反であると抗議している[11]。
出典
- ^ a b c 小島・丸山(1986)pp.39-41
- ^ a b c d e f g h i j k コトバンク「日清修好条規」
- ^ 日本学術振興会『条約目録』1936年
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 井上(1971)pp.303-306
- ^ a b c d 牧原(2008)pp.216-221
- ^ 井上(1971)p.305
- ^ 名倉信敦著『航海漫録』第1巻,金港堂等,明14.9
- ^ a b c d e f g h i j 中村(1992)pp.166-167
- ^ 大賀辰太郎 編『市史抜萃郷賢列伝』50.51頁,大賀辰太郎,昭和11年
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 井上(1971)pp.306-310
- ^ 牧原(2008)p.220
- ^ 岡本隆司 2011, p. 109.
- ^ 岡本隆司 2011, p. 111.
- ^ 岡本隆司 2011, p. 118.
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