じょうやく‐かいせい〔デウヤク‐〕【条約改正】
条約改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/07 14:22 UTC 版)
日本史における条約改正(じょうやくかいせい、英語: Treaty Revision)とは、江戸時代末期の安政年間から明治初年にかけて日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約を対等なものに改正すること。また、そのために行った明治政府の外交交渉の経過とその成果をさす[注釈 1][注釈 2]。
注釈
- ^ 『新版 日本外交史辞典』(1992)では、条約改正を「幕末から明治初年にかけて、日本が欧米諸国と締結した不平等条約を平等条約に締結し直そうと試みた明治政府の一連の外交交渉」と定義している。『国史大辞典』(1986)では「明治政府の締結した北ドイツ連合・オーストリア=ハンガリーなどとの諸条約も安政の諸条約と同様の不平等条約であった」と記されている。臼井(1986)p.637
- ^ 陸奥宗光による1894年の領事裁判権撤廃を第一次条約改正、小村壽太郎による1911年の関税自主権回復を第二次条約改正ということがある。高村(1986)pp.13-16
- ^ 不平等条項のうち、片務的最恵国待遇の規定はマシュー・ペリー再来航時の嘉永7年(1854年)に結ばれた日米和親条約にさかのぼる。
- ^ 領事裁判権と居留地制度については、一説には、一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請ともいわれている。川島・外務省『条約改正経過概要』(1950)p.35
- ^ エドワード・ミラーの推計によれば、開国後の自由通商開始から1881年(明治12年)までの約四半世紀で、日本はそれまでの千年間に蓄えてきた金銀のほとんどすべてを外国に流出させてしまうこととなり、その額は当時の価格で3億ドル(現在の価格になおすと300億ドル程度に相当か)に達したといわれている。岡崎(2009)p.286
- ^ 森の尻馬に乗ったかたちの伊藤博文に対し、帰国後の木戸は「軽薄で大臣の器でない」と評している。また、このような木戸の態度に対しては三宅雪嶺が、その著『同時代史』において、既に神経衰弱にかかっていたのではないかと評している。田中彰(2002)p.93
- ^ 幕府外国掛老中小笠原長行が慶応3年12月23日(1868年1月17日)にアメリカ合衆国公使館書記官ポートメンに与えたもの。建設資材の輸入はすべて無税とすること、開業後も日本は税を徴収しないこと、運賃は米英のそれより25パーセント以上高額にならぬようにすることなど植民地的な取り決めがなされていた。井上(1955)p.9
- ^ 元幕府海軍副総裁・榎本武揚らが建てた独立政権(蝦夷共和国)がプロイセン人貿易商ガルトネルにあたえたもの。井上(1955)p.9
- ^ 旧佐賀藩が高島炭坑経営に英国人トーマス・ブレーク・グラバーのグラバー商会を参加させ、開発資金をグラバーから借り入れ炭坑を担保にしていたのが新政府に債務として引き継がれたもの。グラバーの権利がオランダ企業に引き継がれていたのを日本政府は1873年に債務を完済し、炭坑を回収した。井上(1955)pp.14-15
- ^ 駐屯軍撤退は明治政府が1869年以来再三にわたって英仏に要求してきたが実現できなかった。それが1875年に英仏側からなされたことについて、井上清は、岩倉遣外使節団の間接の成果と論じ、廃藩置県、徴兵令、学制発布、地租改正などにより新政権の体制が整備されたことによるとしている。井上(1955)pp.16-17
- ^ 日本は人口が多いため、いったん「第一等国の部」に加入したが、英仏独などの先進国と同額の費用を負担するのは国費を圧迫するほか、他国とくらべ郵便物の量が極端に少ないところから、あらためて「第三等国の部」に再加入した。犬塚(2006)pp.163-164
- ^ ロベルト・コッホによってコレラ菌がコレラの病原体として発見されたのは、1884年のことである。
- ^ 日本が海港検疫権を獲得するのは1899年(明治32年)の条約改正の実施を待たなければならなかった。伊藤(2001)p.40
- ^ 森有礼は、ロンドン赴任にあたって、イギリス駐日代理公使ケネディに対し、日本と中国を対比し、日本が自由で進歩的であるのに対し、中国は保守的で退歩的と述べ、日本がアジアの中では異質な存在であり、国際社会において西欧的な「礼譲」に「誠意をもって」参加してきたこと、その礼譲が日本に課す義務を進んで受け容れる一方で、それゆえに日本はそれと同等の特権を充分に享受できると主張する覚書を手渡している。犬塚(2006)pp.172-173
- ^ 「鹿鳴」の名は中国の古典『詩経』鹿鳴篇に由来する。
- ^ 官庁街計画はその後中止されたが、すでに着工されていた裁判所と司法省はそのまま建設され、当時の司法庁の建物は現存している。鈴木(2002)p.286。なお、パリを手本とした井上馨の首都改造計画には明治天皇も強い関心を示したといわれる。藤森(2004)
- ^ 1884年(明治17年)8月7日の天皇・皇后も参加する宮中での最初の洋式の夜会では、オットマール・フォン・モールの夫人ワンダが宮内省に雇用されることが決まり、宮中の服制や宮廷儀式の欧風化が進められた。これは、皇室からなされた条約改正交渉への側面援助であった。その際、皇后の果たした役割は大きく、洋装や鹿鳴館バザーを率先して行い、外国人の謁見にあたっても天皇に同席するなどして宮中の国際化を支えた。鈴木(2002)p.304他
- ^ コントルダンスとは歴史的舞踊「カドリーユ」の古称である。森(2006)p.16
- ^ この頃、福沢諭吉も持論であったキリスト教排撃論を撤回し、「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」との論説を発表するに至った。坂本(1998)p.311
- ^ 小村壽太郎は、杉浦重剛、千頭清臣、長谷川芳之助ら国粋主義者とともに乾坤社同盟という政治研究団体を作り、井上案をこの団体に周知させたうえで国民から反対運動を起こさせようとした。井上(1955)p.114
- ^ 1886年(明治19年)10月横浜から日本人乗客23名を乗せて神戸に向かったイギリス船ノルマントン号が、暴風によって紀州沖で座礁沈没した事件。船長ジョン・ウイリアム・ドレーク以下船員27名は乗客を差し置いて全員ボートで脱出、日本人乗客は全員死亡した。この事件で神戸駐在イギリス領事ツループによる海難審判は船長以下の無罪を宣告したため、日本の世論は激昂した。政府は改めて兵庫県知事の名で横浜領事裁判所に船長を殺人罪で告発したが、ニコラス・ハンネン判事は船長に過失致死罪による3か月の禁錮刑の判決を下したのみで、死者への賠償もなかった。藤村(1989)p.82および田中正弘(1990)p.444
- ^ 井上の外相退陣とともに鹿鳴館は社交場としての役割を終え、1890年には宮内省に移管され、1894年の明治東京地震で被災したことを契機に、修復したうえ華族会館として払い下げられた。その後1940年(昭和15年)に取り壊されている。
- ^ 大隈重信の秘書官として改正条約案の立案や外国公使との会見交渉を行った加藤高明はこの時期の自らの活動を『条約改正日誌』に記しており、大隈外相時代の条約改正交渉の詳細が知られる重要な史料となっている。
- ^ アジア最初の憲法としては、1876年に発布されたオスマン帝国の「オスマン帝国憲法」(通称「ミドハト憲法」)があったが、2年後の1878年に憲法停止となった。
- ^ 新聞『日本』が大隈改正案を訳載したのは、1889年5月31日から6月2日にかけてであった。小西ほか(1982)p.186
- ^ 大隈重信の右脚切断手術は、佐藤勇やドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツの手により行われた。大隈はその後、義足を着用しながら2度首相を務めた。大隈が来島のテロで失った右脚は、日本赤十字社中央病院に保存されていたが、1999年(平成11年)、佐賀市の大隈家の菩提寺龍泰寺に安置されている。
- ^ 当初イギリスは南下して満州・朝鮮を窺うロシアに対し、清国をもって防ごうとした。ヨーロッパでは複雑な対立関係にあるフランス・ドイツ・ロシアの3国も、極東ではイギリスの優勢を覆して自国の勢力を拡大させることについては利害が一致しており、独仏両国がロシアに接近して「三国東亜同盟」(East Asiatic Dreibund)と呼ばれる一種の緩い反英ブロックが成立したことから孤立感を強め、やがて日本をして「極東の憲兵」としてロシアへの防壁にしようという論が起こってきた。井上(1955)pp.191-196
- ^ このとき、陸奥宗光は、刺客を雇って津田三蔵を暗殺し、病死と発表してしまえばよいと主張した。また、後藤象二郎逓信大臣も同様の提議をおこなったが、伊藤博文は、それに対し「日本は法治国家だ」と一喝したといわれている。御厨(2001)pp.219-220および佐々木(2002)p.71
- ^ 謀殺未遂罪の適用を主張する児島惟謙に対し、政府は青木とシェービッチの密約の存在を明かして翻意を迫り、判事を説得した。それにより、一時は過半の裁判官が政府側についたが、児島が判事に対し再説得した。児島の行為は対外的には「司法権の独立」を護ったといえるが、「裁判官の独立」を定めた裁判所構成法には違反している。佐々木(2002)p.71
- ^ ロシア皇帝アレクサンドル3世は、日本の裁判所は当然津田を死刑判決を下すものと思っていたという。その場合、日本が死刑といってきたら、ただちに犯人の助命と無期懲役への減刑をロシア側から懇請し、それを受けるかたちで日本が無期懲役にするシナリオを考えていた。ロシアとしては、そうすれば日本に対し、外交上いっそう優位な立場に立てると踏んでいたとみられる。御厨(2001)p.223
- ^ 第1次山縣・第1次松方両内閣の農商務大臣であった陸奥は、第1議会の紛糾に際して、星亨との間で会談を持ち、自由党の協力が得られるよう尽力している。
- ^ この演説の評価は内外ともに高く、イギリスの臨時公使代理は、陸奥宛書簡で「貴下の演説は貴政府の進歩的政策が誠心誠意のものであることを十分主張することができよう」と書き記している。岡崎(2009)p.306
- ^ 国民協会は80名から26名に激減、改進党はなおも48名を擁し、対外硬6派を併せれば過半数を上まわる勢力を蓄えていた。海野(1992)p.52および御厨(2001)p.276
- ^ イギリスの政府委員であるバルチー外務次官補が、ロシア・フランスが日本に対して政略的な譲与(たとえば貯炭所の建設)を求めたら、日本としてはどうするか青木に質問している。それに対し、青木は「露・仏がそれを請求するのであれば英国もまた請求する権利を持つだろうが、そのような無法の請求をする国に対してはロシアであれフランスであれ、他のどんな国であれ、日本は全土を焦土としても抵抗するであろう」(大意)と応答している。井上(1955)pp.219-220
- ^ イギリス外相キンバーリー伯は、朝鮮国駐在の大鳥圭介公使がイギリスより派遣された軍事教官コールドウェル少尉の解雇を朝鮮政府に迫ったことと、日本軍が仁川の外国人居留地を経由して軍用電信線を敷設したことを理由にいったん調印を拒んでいるが、青木公使は前者については調査を約束、後者については「やむを得ざること」と釈明した上で陸奥外相の判断を仰いだ。調査が期限に間に合わないことが明白であった陸奥は、「一個英人を解傭するために今倫敦において垂成の大業を一朝に破却すべき謂れを見ず」(『蹇蹇録』)と判断して軍事教官の件について「その事実なし」と回答するよう青木に命じて事なきを得た。佐々木(2002)pp.123-124および陸奥宗光『蹇蹇録』pp.122-125
- ^ アメリカが1894年11月22日、イタリアが同年12月1日、ロシアが1895年6月8日、ドイツが1896年4月4日、フランスが同年8月4日、また、ベルギー(1月4日)、ペルー(1月10日)、ブラジル(2月23日)、スウェーデン(5月25日)、オランダ(9月17日)、スイス(9月19日)、スペイン(9月21日)、ポルトガル(10月29日)の各国が1897年中に、オーストリアが同年12月5日にあいついで新条約に調印している。佐々木(2002)p.125および『明治ニュース事典V』(1985)pp.276-278
- ^ 1905年12月2日、ロンドンの在英日本公使館が昇格して大使館となったのが最初であり、初代駐英大使に任命されたのは日英同盟締結に功のあった林董であった。「外務省ってどんなところ?」(外務省公式Webサイト)
- ^ 中華民国では、1931年以降は国定税率による輸出入税が導入されるようになったものの税関管理の職務には外国人を雇用していたため、関税自主権が名実ともに中国の手に回復されたのは中華人民共和国成立以後のことといえる。加藤(2004)
出典
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- 1 条約改正とは
- 2 条約改正の概要
- 3 影響と歴史的意義
- 4 脚注
- 5 外部リンク
条約改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 04:21 UTC 版)
その原点は、幕末の攘夷論や明治初期の征韓論などに求めることも可能であるが、直接的な原因としては、明治政府が条約改正に際して採った欧化政策とそれに対する反発としての国粋主義の高揚が上げられる。いわゆる日本主義者が、『日本』を舞台に政府の外交方針と自由民権運動の民力休養路線の双方を批判して、強硬的な外交政策による不平等条約解消とその裏付けとなる軍事力の拡張を主張した。
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