かいなん‐しんぱん【海難審判】
海難審判
海難審判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 15:17 UTC 版)
横浜地方海難審判理事所は事件の発生の通告を受けると、直ちに係員3人を相模湖へ派遣した。翌日、現地に赴いた係員は、事故を起こした内郷丸の船体を実地検分するとともに、貸ボート業者や当時生徒を引率した教員の事情聴取を行った。その後も、遊覧船を運行する会社の専務、事故を目撃した船舶の乗組員、遭難した中学校生徒などに事情聴取を行い、10月25日、内郷丸船頭と船舶の所有者を指定海難関係人に指定した。 11月9日に第1回の審判が開廷された。傍聴席には死亡した中学校の生徒の家族をはじめ、報道関係者など多数の傍聴者で埋まり、異様な雰囲気に包まれていた。 その後、この審判は1955年2月5日の第5回の審判をもって結審となった。結審までの間、審判では15人の証人尋問を行うなど集中的に審理が行われ、3月4日、「本件遭難は、船舶所有者の業務上の過失と船頭の運航に関する職務上の過失とによって発生したものである。」を主文とし、本件事故に関し、船舶の所有者が法令に違反して届出をしなけらばならない大がかりな船舶の改造を行ったにもかかわらず届出しなかった上、さらに運行上においても内郷丸船頭が法令に違反して定員を超えて旅客を乗せた上に沈没の危険が切迫するまで気付かなかった責任を追及する内容の採決が言い渡された他、2人の指定海難関係人に対して、関係法令および定員の順守を要求し、船舶の前方または後方に人員が偏ることの危険に係る指摘を主な内容とする勧告書が出され、第一審で確定した。
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海難審判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 10:10 UTC 版)
「海洋調査船へりおす遭難事故」の記事における「海難審判」の解説
第1回の審判は1989年3月7日に仙台地方海難審判庁で開始された。第一審で尋問や証拠精査を行った後、1990年1月18日結審。1990年3月20日、裁決言い渡し。裁決に不服として海難審判理事所が第二審請求。第二審は高等海難審判庁で1991年7月1日に行われ、「本件遭難は、天候悪化の傾向があるときに陸岸に接航する針路をとらなかったことと、開口部の閉鎖が十分でなかったこととに因って発生したものである。」という主文を以って1992年6月3日に裁決の言渡しが行われた。
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海難審判
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この事件は、当時日本最大級のLPGタンカーの積荷が爆発炎上、多数の死者を出した他、東京湾航路の根幹とも言うべき中ノ瀬航路を事実上、閉鎖状態にするという重大な事態を招いたために運輸省(当時)横浜地方海難審判庁(当時)によって指定重大海難事件とされて海難審判の対象となり、受審人として第十雄洋丸関係者から第十雄洋丸船長、第十雄洋丸三等航海士、第十雄洋丸次席三等航海士及び当時水先艇を務めていたおりおん1号船長が指定され、指定海難関係人には第十雄洋丸船舶所有者及びパシフィック・アレス運航者が指定されて1974年12月26日に第一回審判が開かれた。 海難審判では、海難審判庁の調査によって事故に至るまでの次の経過が判明している。 「パシフィック・アレス」が木更津港からの出港前に水先人から使用していた海図の不備を指摘されて修正を受けたこと。 「第十雄洋丸」が水先艇との間隔を一定に保つべきところを時間の経過とともに距離が縮まっていったこと。 「第十雄洋丸」が衝突の約6分前に「おりおん1号」とともに右舷38度弱の方向、約1.5海里の距離に「パシフィック・アレス」を視認していたこと。 両船がともに衝突直前まで減速を含む回避行動を取らなかったこと。 その後、1975年(昭和50年)5月23日に「(判決内容)」との第一審の裁決が言い渡されたが、これを不服とする第十雄洋丸関係者から第二審の請求がされ、第二審は高等海難審判庁(当時)において同年8月26日から同年12月17日までの間で審理が行われた結果、1976年(昭和51年)5月20日に衝突場所が航路外の場所であったものの、「第十雄洋丸」は衝突時において船尾の50 mほどを中ノ瀬航路内に残していたことから、このような形で競合する場合においては海上交通安全法による航路優先の原則が優先される旨の判断を下し、「本件衝突は、パシフィック・アレスの不当運航に因って発生したが、第十雄洋丸船長の運航に関する職務上の過失もその一因をなすものである」を主文とし、事故の主たる原因が「パシフィック・アレス」の不適当な航路の横切りにあることを認めながらも、第十雄洋丸船長が海上衝突予防法第29条(当時)に規定するグッドシーマンシップに基づく「船員の常務」として行うべきである「パシフィック・アレス」との衝突を回避するための最大限の努力を怠った責任を追及する内容を理由として第十雄洋丸船長の船長免状の効力を1ヶ月間停止する第二審の裁決が言い渡されて確定した。 なお、この海難審判においては、最終的に第十雄洋丸船長を除く受審人は全員が「過失と認めない」または「本件事故と関係なし」とされた他、指定海難関係人は全員が「本件事故と関係なし」として処理されている。
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海難審判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:37 UTC 版)
海難事故においても、一般の事故の同様に民事上の責任や刑事上の責任が問題となる。ただ、海難事故においては、これらの責任とは別に将来的な海難の防止のためにも、船舶事故やそれに伴って発生した被害の原因を究明するための調査と、職務上の故意・過失によって海難を発生させた船員の懲戒が特に重要となる。以前は海難審判庁がこの職務に当たっていたが、2008年10月の法改正により海難審判庁は廃止され、前者の海難事故の原因究明については運輸安全委員会が担うこととなり(運輸安全委員会設置法第1条)、後者の故意・過失によって海難を発生させた船員の懲戒については海難審判所が担うこととなった(海難審判法第1条)。
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海難審判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 21:48 UTC 版)
海難審判として、2008年(平成20年)6月27日に横浜地方海難審判理事所が第63護衛隊(現・第3護衛隊群第3護衛隊)や当直士官A・Bと前艦長、戦闘指揮所監督責任者を指定海難関係人に指定して、横浜地方海難審判庁に審判開始を申し立てた。事故原因について「あたご側の監視不十分」または「漁船側の急な右転」かで、海難審判理事所理事官側(=検察側に相当)と指定海難関係人(=あたご側、被告に相当)の主張が対立。2009年(平成21年)1月22日、事故主因をあたご側と認定する裁決が下り、第3護衛隊群には安全教育の徹底を求める勧告がされた。一方で清徳丸が警告信号を行わず、衝突を避けるための協力動作を取らなかったことも一因とした。水雷長Aの過失も認定されたが、航海長Bの引き継ぎ不備と事故の因果関係はないとされている。 前艦長は、裁決言い渡し後の記者会見で死亡した漁船乗員に対し謝罪と哀悼の意を述べながらも、漁船の右転も大きな要因であるという見解を示した。 海難関係人に指定されたあたご側には二審請求権がなく、同審判所の理事官側は前艦長ら海難関係人に改善事項を指摘したこと、当該艦の所属部隊に勧告したことなどを理由に東京の海難審判所(高等海難審判庁制度はすでに廃止)への二審請求を見送った。これに伴い、横浜地方海難審判所は同艦の所属する第3護衛隊に勧告書を送付、2009年1月30日をもって裁決が確定した。
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海難審判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:36 UTC 版)
1954年9月27日、函館地方海難審判理事所の理事官が、重大海難として高等海難審判理事所から応援を得て調査を開始。 10月1日、函館地方海難審判理事所所長が中間発表の記者会見で「調査の結果荒天準備が不十分で、船長の過失のにおいが濃くなった」と発表。同じ頃、最高検察庁は「平常の経験からこの程度では航行できると判断して出航したらしいので、業務上過失にはならない。また船長が死亡しているので問題にならない」との見解を発表した。 11月27日、函館地方海難審判理事所は函館地方海難審判庁に洞爺丸を含む5隻の沈没事故について審理申立を行なう。 1955年2月15日、函館地方海難審判庁で第一回の審理開始。受審人は各船の所属乗組員9名(事故当時非番のものを含む)。指定海難関係人は日本国有鉄道の総裁であった長崎惣之助及び青函鉄道管理局長、中央気象台長、函館海洋気象台長を指名。この後生き残った乗客・乗組員、青函局部課長、造船技師などを証人として審理が行なわれた。 2月25日、東京大学加藤弘教授らによる「洞爺丸等復元性鑑定書」が提出。 機関室等への漏水によるエンジン停止の原因となった車両甲板への海水の滞留は、水槽実験により波高6m、波周期9秒のときに最大量となることが判明。この値は観測による推定値とほぼ一緒であった。 車両甲板上の滞水量は試算により250トン以下とされ、復原力には影響を及ぼすものではないとされた。 七重浜での転覆は水槽による座州実験の結果、漂流中に右舷ビルジキールが漂砂に引っかかったため船体が一点支持となり、そこへ大波が襲ったために転覆したと推定された。 9月5日、理事官、受審人、指定海難関係人及び海事補佐人による最終弁論。 9月22日、洞爺丸について函館地方海難審判庁の裁決言渡。主文は「船長の運航に関する職務上の過失に起因して発生したものであるが、船体構造及び連絡船の運航管理が適当でなかった事も一因である」とし、指定海難関係人十河信二 に対して勧告した。気象台と青函鉄道管理局長については勧告を見送った。 12月21日、十勝丸・日高丸・北見丸・第十一青函丸について函館地方海難審判庁の裁決言渡。十勝丸・日高丸・北見丸については洞爺丸と同様の裁決となった。第十一青函丸については乗組員全員死亡により原因不明とされた。これらに対し理事官・国鉄の双方から二審請求が提出される。 1956年4月6日、高等海難審判庁で第二審の審理開始。 1957年1月22日、この日の審理で気象庁から発表された「昭和二十九年台風十五号報告」に対する説明が行われ、国鉄側からも質疑を行なう。 1959年2月9日(他四隻については1960年3月15日)、ほぼ一審裁決を踏襲した裁決を発表。ただし、国鉄に対してはすでに改善措置がとられているとして勧告はなされなかった。 国鉄は内容を不服として東京高等裁判所に裁決取り消しを求めて提訴したが、同高裁は1960年8月3日、「海難審判の裁決は意見の発表に過ぎず、行政処分ではない」として訴えを却下。8月15日に最高裁判所に上告したものの、1961年4月20日に上告を棄却して裁決が確定した。 審判進行中から殉職した船長が弁明の機会のないまま一方的に断罪されることについて疑問視する意見が出ていたが、その後、海難審判庁では海難審判制度改革の議論の中で、「海難で船長が殉職した場合、一言の弁明の機会もないまま裁決文に『職務上の過失』と明記されるのはいかがなものか」とされ、その後船長が殉職した海難事故では裁決理由の中に船長名が出たとしても『船長の職務上の過失』の語句は使用しないと申し合わされることとなった。
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海難審判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:25 UTC 版)
「マリアナ海域漁船集団遭難事件」の記事における「海難審判」の解説
この件に関する海難審判は、1966年2月12日に横浜地方海難審判庁で開かれた。この審判は、遭難漁船1隻ごとに行なっていたが、「マリアナ海域漁船集団遭難事件」とまとめて7隻の海難審判が行なわれるようになった。 裁決は1967年3月30日に開かれ、「遭難は台風第29号の予測困難な発達による荒天に遭遇して発生した」とする裁決が下っている。
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海難審判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 16:26 UTC 版)
海難審判庁は、両者について海難審判を開始した。 1989年(平成元年)7月25日、横浜地方海難審判庁は裁決において「なだしお」側に主因があったとし、海上自衛隊に対して指導不十分とし安全航行を徹底するよう勧告を出した。指定海難関係人(=被告に相当)である海自・元艦長Xらに二審請求権はないが、海難審判理事所理事官側(=検察側に相当)が裁決を不服として同年8月1日に二審を請求した。 翌1990年(平成2年)8月10日、高等海難審判庁は裁決において、「なだしお」の回避の遅れと「第一富士丸」の接近してからの左転、双方に同等の過失があったと判示した。 この事件が多くの被害を出したのは短時間での沈没であったことと、そのため船内にいた人が脱出の機会を失ったこと、また救命胴衣の着用がなく脱出した者も力つきて溺れたことなどが挙げられている。
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